◇「偽親子」の逃避行に心動かされる
作家は犯罪者に惹(ひ)かれる。
犯罪者は、犯罪を犯した瞬間から、社会の日常をはずれてしまう。常識社会から指弾され、追われる。その疎外感が作家の想像力を刺激するのだろう。
◇「偽親子」の逃避行に心動かされる
作家は犯罪者に惹(ひ)かれる。
犯罪者は、犯罪を犯した瞬間から、社会の日常をはずれてしまう。常識社会から指弾され、追われる。その疎外感が作家の想像力を刺激するのだろう。
(新潮社・1470円)
◇道具ではなく「人格」としての言葉
私自身、かなりの量の翻訳をしている。だから自信をもっていえるのだが、文学の世界で、とりわけ翻訳の難しい作品が二つある。一つはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』である。もう一つは同じくジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』である。アイルランド生まれのこの作家は、翻訳者に地獄の苦しみをなめさせるために生まれてきたような人なのだ。
◇共感のさざなみ、かきたてられて
もしもわたしが一冊の本だったら--というのは変な想像かもしれないが、『書評家<狐>の読書遺産』を読んでいると、ついそう思ってしまう。もしもわたしが一冊の本だったら、他の誰でもない、<狐>に読んでもらいたい。そしてできることなら、書評を書いてもらいたい。書評家<狐>こと山村修は、そう思わせるほど希有な読み手であり書き手だった。
ここで個人的な思い出話を綴(つづ)ることをお許し願いたい。<狐>とは、かつて夕刊紙「日刊ゲンダイ」で二十年以上もの長きにわたって書評コラムを書いていた、謎の人物のペンネームであった。そして、<狐>の書評が始まったのと同じ一九八一年に、実はわたしも「日刊ゲンダイ」で将棋ライターとして観戦記を書く仕事を始めたのである。そのころはまだ自分の原稿を書くのに精一杯で、ピンク記事をはさんだ向こう側にいる<狐>の存在には気づいていなかった。わずか九〇〇字ちょっとで簡にして要を得た紹介をしながら、ピリリと薬味を効かせることを忘れない、独自の読書スタイルを持った<狐>が気になりだしたのは、ずっと後の話である。なんと迂闊(うかつ)だったことか。
◇クンデラ絶賛のフランス18世紀小説
一九六八年、いわゆるプラハの春を抑圧するため、ロシアがチェコを占領した。クンデラはチェコ共産党から二度目の除名を受け、大学助教授の職を失い、著作活動を禁止された。援助の手がさしのべられたなかに、ある演出家からの、彼の名でドストエフスキー『白痴』の脚色をしないかという申し出があった。クンデラは『白痴』を読み返し、断り、代案としてフランス十八世紀の作家(というよりむしろ思想家として名高い)ディドロの長篇小説『運命論者ジャックとその主人』をあげた。
ロシアに対する反感のせいではなかった。『白痴』の「極端な身ぶり、得体の知れない深遠さ、攻撃的な感傷の世界」が我慢できなかったからだ。クンデラいわく。ドストエフスキー的文学風土は感受性過多のせいで、感情と合理性との釣合いがとれていない。ディドロの作品は「知性とユーモアと空想の饗宴(きょうえん)」であって、「理性、懐疑、遊戯、人間認識の相対性」という西欧近代の精神にみちている。これは彼が八一年にフランス語で刊行した劇作『運命論者ジャック』の序で述べていることだが、ドストエフスキー批判として説得力に富む。さらに『運命論者ジャックとその主人』(一七七八-八〇)をはじめとするディドロの反小説の紹介としても役に立つ。
◇「ありそうで実はない絵画」を楽しむ
フランスの実験文学集団「ウリポ」の一員として知られるジョルジュ・ペレックが、代表作となる大作『人生 使用法』(一九七八年)を完成させた後に、次に書いたのがこの中篇『美術愛好家の陳列室』(一九七九年)である。
まず物語を簡単に紹介しよう。一九一三年にピッツバーグで開かれた絵画展に、ドイツ系アメリカ人のハインリッヒ・キュルツが描いた《美術愛好家の陳列室》という作品が出品された。それが事の始まりである。キュルツはヘルマン・ラフケというやはりドイツ系の美術愛好家によって見出され、肖像画を描くようにという注文を受けた。そこでキュルツは、己のコレクションを飾った陳列室で腰かけているラフケの肖像を描いた。それが《美術愛好家の陳列室》という作品なのだ。