(中央公論新社・1680円)

 ◇「偽親子」の逃避行に心動かされる

 作家は犯罪者に惹(ひ)かれる。

 犯罪者は、犯罪を犯した瞬間から、社会の日常をはずれてしまう。常識社会から指弾され、追われる。その疎外感が作家の想像力を刺激するのだろう。

 この小説の主人公はふたり。ひとりは赤ん坊(女の子)を盗んで、約三年半、逃亡生活を続ける女性。もうひとりは、その赤ん坊が親元に戻り、いまは大学生に成長した女性。盗んだ女性と、盗まれた女性のふたつの物語が巧みに交差してゆく。

 一九八五年、二十代のOLの「私」は妻のいる男性と不倫をし、相手の妻が産んだ生後六ケ月の赤ん坊を発作的に盗んでしまう。

 なぜ盗んだのかは本人にもはっきりしない。復讐(ふくしゅう)のためか。赤ん坊が可愛かったからか。作者もあえてそこを書き込まない。そのほうがかえって現実味がある。

 「私」は赤ん坊を抱えて逃げる。周囲の人間は「私」を母親としか見ない。偽母親となった「私」は東京からまず名古屋へ逃げる。再開発中の一画に取り残された家に住む風変りな女性に助けられる。その家にころがりこむ。見よう見まねでミルクをやったり、おしめをかえたりしているうちに「私」は赤ん坊が可愛くなる。赤ん坊も「私」になついてゆき、擬似親子関係が生まれてくる。

 そのあと「私」は「天使の家」という不幸な女性のための施設に逃げ込む。子供を連れた女性も多く、絶好の隠れ家になる。赤ん坊はいよいよ「私」になつく。偽母親は次第に本当の母親のような気持になってゆく。このあたりの偽と本当の区別があいまいになるさまが面白い。

 それでも「私」にはつねに犯罪者としての負い目がある。追われる意識がある。「天使の家」が危なくなったと感じると、また赤ん坊を連れ、こんどは小豆島に逃れる。まるで同行(どうぎょう)二人(ににん)のように。

 小豆島では親切な素麺(そうめん)屋の女性に雇われる。島の人々も都会から流れて来た偽親子を隣人として温かく受け入れる。赤ん坊は成長し、「私」のことを本当の母親と思う。 この小豆島の部分は全篇の白眉で、偽の親子の暮しが一瞬のユートピアのように見える。そして管理社会の隙間を転々として逃げ続ける「私」の逃避行に、いつしか読む側も巻き込まれてゆく。

 「私」が「どうか、どうか、どうか、どうかお願い、神さま、私を逃がして」と祈ったりするところは、思わずホロリとしてしまう。犯罪者に心動かされる。小説の魔力である。

 「私」は逃げ続けられるのか。そこで物語は一気に第二部に飛ぶ。盗まれた赤ん坊は家に戻り(盗んだ女性は逮捕される)、成長していまは大学生になっている。

 幼児期の三年半の不在は当然、本当の親子関係に深い傷を残す。親は子供にどう対したらいいか分らない。子供も同様。アイデンティティが混乱する。十九世紀ドイツに実在した謎の少年カスパー・ハウザーを思わせる。

 大学生の「私」は、親元を離れ、一人暮しを始める。そして偽親と同じように妻のいる男性と不倫をする。やがて妊娠する。

 そんな「私」を、かつてやはり「天使の家」にいた女友達が励ます。『対岸の彼女』もそうだったが著者は女どうしの友情を大事にする。実際、この小説は男の影が薄い。

 最後、「私」は友人とかつて偽母と・幸福な日々を過ごした小豆島へと旅する。そこで--。二人の「私」の長いオデッセイの終りには、深い感動がある。

 蝉(せみ)は地上に出て七日ほどで死ぬという。なかに八日目も生きる蝉がいたら。題名は二人の「私」の孤独をあらわしている。

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