◇クンデラ絶賛のフランス18世紀小説
一九六八年、いわゆるプラハの春を抑圧するため、ロシアがチェコを占領した。クンデラはチェコ共産党から二度目の除名を受け、大学助教授の職を失い、著作活動を禁止された。援助の手がさしのべられたなかに、ある演出家からの、彼の名でドストエフスキー『白痴』の脚色をしないかという申し出があった。クンデラは『白痴』を読み返し、断り、代案としてフランス十八世紀の作家(というよりむしろ思想家として名高い)ディドロの長篇小説『運命論者ジャックとその主人』をあげた。
ロシアに対する反感のせいではなかった。『白痴』の「極端な身ぶり、得体の知れない深遠さ、攻撃的な感傷の世界」が我慢できなかったからだ。クンデラいわく。ドストエフスキー的文学風土は感受性過多のせいで、感情と合理性との釣合いがとれていない。ディドロの作品は「知性とユーモアと空想の饗宴(きょうえん)」であって、「理性、懐疑、遊戯、人間認識の相対性」という西欧近代の精神にみちている。これは彼が八一年にフランス語で刊行した劇作『運命論者ジャック』の序で述べていることだが、ドストエフスキー批判として説得力に富む。さらに『運命論者ジャックとその主人』(一七七八-八〇)をはじめとするディドロの反小説の紹介としても役に立つ。
反小説という文学用語には解説が要るだろう。一貫したプロット、人間心理の分析、リアリズムなど、標準型の小説の手法に逆らう小説のことで、その開祖は十八世紀イギリスのスターン『トリストラム・シャンディの生涯と意見』あたりか。ディドロは『百科全書』編集においてイギリスに学んだと同じように反小説でもイギリスに見習った形だが、もちろんその底には常套(じょうとう)的な方法に従いたくない反抗心、制度化した筆法では描けない現実をとらえようとする精神があった。
その方法を具体的に言えば、まず、小説は作者が書く虚構のものだということの明示である。作者が登場人物たちよりも前景に出て来て読者に語りかけ、筋の展開が自分の手中にあることを公言する。それは炉辺の説話の語り手に似ているが、しかしブレヒトのいわゆる異化作用がほどこされる。
二人はどんなふうに出会ったのですか? みんなと同じく、ほんの偶然に。二人の名前は?それがあなたになんの関係があるんです? 二人はどこから来たのですか? すぐ近くの場所から。二人はどこへ行くところだったのですか? ひとは自分がどこへ行くのかなんてことを知ってるものでしょうか?
という、読者と作者の対話形式による型やぶりの冒頭ではじまるこの長篇小説は、ジャックの恋物語を語ってくれという主人の要請を彼が承知したにもかかわらず、恋物語は何度も何度も中断され、横道にそれ、読者は小説中の世界に感情移入することを妨げられる。
ともかく、この男は善良で、率直で、誠実で、勇敢で、献身的で、忠実で、とても強情で、そしてそれ以上におしゃべりでしたが、あなたや私と同じように、自分の恋の話を始めてはみたもののそれを語り終えるあてもないので、頭を痛めていたのです。そこで、私としても読者のあなたにご忠告申しあげたいのですが、この際心を決めて、ジャックの恋愛話のかわりにデ・ザルシ侯爵の秘書の冒険譚で我慢なさってはいかがでしょうか。
という具合に。ディドロはこうすることによって、小説が感受性過剰の情緒的なものになることを避け、乾いた、知的な認識のための道具としようとした、とクンデラならば言うにちがいない。
重大なのは、この一見なげやりの出まかせに見える逸脱や飛躍の連続と反覆、どれが本筋でどれが脇筋かはっきりしない渾沌(こんとん)のもたらす世界がじつに楽しく、艶笑譚の百科全書、旧体制(アンシャン・レジーム)風俗の総括になっていることだ。社会はまるごと差出される。
われわれは自由自在で闊達(かったつ)な話術に翻弄されながら、脇筋に出没する怪物的な登場人物たちと親しくつきあい、そして賢いジャックと彼の言いなりになる主人との珍道中に立会う。この、従者のほうが優位に立つ主従関係は、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』を連想させるだろう。「われわれに起ることはすべて天上の大巻物に書いてある」というジャックの運命論には、王制はかならず転覆するという百科全書家の信念、史的決定論の、世話に崩した表明という局面がある。
もう一つ、飼主である英語教師より飼猫のほうが賢そうなあの長篇小説、わが近代文学の開始を告げる反小説を思い出してもよい。すなわちディドロと夏目漱石は共にスターンの弟子であった。(王寺賢太・田口卓臣、訳)
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