(文春新書・777円)

 ◇共感のさざなみ、かきたてられて

 もしもわたしが一冊の本だったら--というのは変な想像かもしれないが、『書評家<狐>の読書遺産』を読んでいると、ついそう思ってしまう。もしもわたしが一冊の本だったら、他の誰でもない、<狐>に読んでもらいたい。そしてできることなら、書評を書いてもらいたい。書評家<狐>こと山村修は、そう思わせるほど希有な読み手であり書き手だった。

 ここで個人的な思い出話を綴(つづ)ることをお許し願いたい。<狐>とは、かつて夕刊紙「日刊ゲンダイ」で二十年以上もの長きにわたって書評コラムを書いていた、謎の人物のペンネームであった。そして、<狐>の書評が始まったのと同じ一九八一年に、実はわたしも「日刊ゲンダイ」で将棋ライターとして観戦記を書く仕事を始めたのである。そのころはまだ自分の原稿を書くのに精一杯で、ピンク記事をはさんだ向こう側にいる<狐>の存在には気づいていなかった。わずか九〇〇字ちょっとで簡にして要を得た紹介をしながら、ピリリと薬味を効かせることを忘れない、独自の読書スタイルを持った<狐>が気になりだしたのは、ずっと後の話である。なんと迂闊(うかつ)だったことか。

 本書『書評家<狐>の読書遺産』は、その<狐>が『文學界』誌で「文庫本を求めて」と題しておよそ三年間、肺ガンで亡くなるまで続けた連載をまとめたものである。「日刊ゲンダイ」のコラムよりも筆がのびやかに見えるのは、一般大衆を意識していたときよりも対象図書の選択が自由になったためだろう。文庫本という制限はあっても、そんな本が文庫で出ていたのかと思わずハッとするようなものが選ばれているところが、鑑識眼のたしかさだ。<狐>に選ばれた本たちをうらやみたくなる。

 世の中には二種類の書評が存在する。読まなくても書ける書評と、読んでいないと書けない書評である。そしてもちろん、<狐>の書評は後者の代表格だ。なぜなら、<狐>は本を読んでいて、思わず目をとめた細部を、そしてそのときの心の動きを、あざやかに書きつけているからだ。名著『気晴らしの発見』で、ストレスから脱出しようとして「言葉こそ、心のもみ玉。たいせつなのは言葉だ」と見つけたあの感動的な瞬間が示唆するように、山村修にとって書物とは、まずなによりも心に響くものだった。言葉に心動かされた体験を言葉にした<狐>の書評が、今度はそれを読む者の心をもみほぐしてくれる。たとえば、ナボコフの『青白い炎』がいかに取っつきにくそうでも、「いざ読みはじめれば『うれしさや共感』がにじみ、それこそ『生きる』力が湧いてくる!」と<狐>が書くのを読めば、そのうれしさのさざなみが伝わってきて、わたしの心にも共感のさざなみをかきたてずにはいない。

 もしもわたしが一冊の本だったら、<狐>に読んでもらいたい。そう考えるのは、本のいちばん大切なところ、いちばん美しいところに、<狐>が反応してくれるからだ。大衆小説家のダフネ・デュ・モーリアの『レイチェル』を読んで、女主人公が目の中に一瞬浮かべた表情の描写に、作者のただものならぬ凄(すご)みを感じ取りながら、<狐>はこう書く。「いかなる作家を読むときも、その低いと思えるところを飛んで、クリアした気になってはいけない。バーは高きにおくこと。そんなことも、この本に教えられた」。読書人として、そして書評家としての心がけをこの言葉から教えられると同時に、そのように<狐>に読まれた『レイチェル』という小説は幸せだとわたしは思う。そして、この『書評家<狐>の読書遺産』を読んだ自分は幸せだと思う。たとえ<狐>はもういなくても。

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