(ホーム社/集英社・2730円)

◇とどめおけないものを、とどめた小説

 

 厚ぼったい本である。やさしく繊細な小説であり、きわめて美しい小説でもある。完成されていると私は思う。美しく歪(ゆが)んだまま完成されている、と。『夜はやさし』というこの一冊の長編小説が、傑作である理由はたぶんそこにある。歪んだままというところ。なぜならそれは、人が、あるいは物語が持つ、天然の歪みだからだ。美しいに決まっている。本来、小説のなかには収まらないはずのものなのだ。

 F・S・フィッツジェラルドが、プルーストの『失われた時を求めて』を読み始めた妻のゼルダに、その本を読むなら一度に三頁(ページ)以上読んではいけない、と忠告したというのは有名な話だけれど、『夜はやさし』も、できればゆっくり読むほうがいい。この小説の主役の一つはまちがいなく時間だからで、やさしくもあり残酷でもあり、控え目でもあり強引でもある時間を、感じとるには時間がかかる。

 物語はこんなふうに始まる。「美しい海岸が続くフレンチ・リヴィエラの、マルセイユとイタリア国境のほぼ中間あたりに、堂々たる外観の大きなバラ色のホテルがある」。そのホテルで、ある母娘、ある夫妻を中心に、まず人々が出会う。観察やらかけひきやら、水遊びやらパーティやら、口論やら小旅行やら決闘やらがくりひろげられる。この第一部の多幸感(登場人物たちのではない。惜しげもなく読者に与えられる、多幸感)はすばらしい。文章によってのみ出現する日ざし、にぎやかさ、人々の魅力、そしてとどめおくことのできない一瞬一瞬。『夜はやさし』は、まさにその一瞬一瞬を--とどめおくことができないはずなのに--とどめ得てしまった小説なのだ。

 第二部は、冒頭で舞台がスイスに移り、時間も遡(さかのぼ)って第一部よりも過去のことが語られる。現在に戻り、リヴィエラのホテルや、再びスイスや、アメリカや、さまざまな場所で登場人物の一人一人がそれぞれの日々を前に進める。ディック・ダイヴァーと妻のニコルを中心とした、ある時代にある場所にいた人々だ。際立って個性的な、けれど人間がみなそうだという意味でささやかな、さらに人間がみなそうだという意味で未熟な人々--。ほんとうに、この小説には未熟の魅力が詰まっている。未熟故の輝き、未熟故のやさしさ、未熟故の成功、未熟故の美しさ。そして、未熟を扱う作家の手腕は熟達している。

 第三部に入ると、物語は加速度をつけてつき進む。こみいったまま、とどめおけないはずの一瞬一瞬を奇跡のように積み重ねながら、一つの時間の終りに向って--。

 一般的に、この小説は破滅もしくは崩壊の物語とされている。フィッツジェラルド自身の言葉、「言うまでもなく、人生とは崩壊の過程である」が帯に引かれてもいるとおり、そう読むことはもちろんできる。妻ともども人目を惹(ひ)くほど美しく、裕福で、周囲にその魅力をふりまかずにはいられなかったディック・ダイヴァーは、物語の終りではもうそのようではないのだから。けれどこれは時間の物語でもあるのだ。人は誰もひとところにとどまってはいられない。とどまっているふり(、、)はできるにしても、ふり(、、)をすれば失われてしまうものが確かにあって、それがあの輝やかしい一瞬一瞬だとすれば、そんなふり(、、)はとてもできない種類の人間だった登場人物たちに、私は拍手喝采(かっさい)する。物語の最後を、私なら破滅とも崩壊とも思わない。満ちたりた、やさしい結末だと思う。(森慎一郎・訳)

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