◇『どこにもない国 現代アメリカ幻想小説集』
  ◇『不存在的國家 現代美國幻想小說集』

 ◇全世界がコンビニ化した現代の怖さ

  ◇全世界便利商店化的現代式恐怖


 夏の一泊旅行、何か良い読み物でもないかなと思って手にした短篇集だが、とても面白い。「現代アメリカ幻想小説集」と銘打たれていて、なかにはちょっと怖いものもある。というより、ほんとうはすべて怖いお話なのかもしれない。全九篇。

  雖然是想著有沒有什麼好的讀物可以在夏天的兩天一夜旅行中閱讀時選中的短篇集,內容十分引人入勝。題為「現代美國幻想小説集」的這本書裡面有些恐怖事物的描寫,或者說,可能幾乎全部都是恐怖故事。共九篇。

 
 マコーマックの「地下堂の査察」は、独房形式の強制収容所の査察官が、居住者すなわち収容されている人間の来歴を語るというもの。「千エーカーにわたる、遠目に見る限り本物そっくりの、私有の模造森」を作った男とか、奇想天外な話がつづくが、みな暗い哀愁がただよう。最後に語られる査察官自身の来歴--故郷の村が地図から消えていて、証明書偽造の罪に問われたという来歴が、とくに怖い。

 ケアリーの「ドゥ・ユー・ラヴ・ミー?」に登場するのは地図製作者たち。彼らは国の一部が非物質化しつつあることによっていっそう重要視されている。非物質化というのは消滅するということ。たとえば巨大なビルがじわじわと見えなくなってゆくのである。もちろん人間もじわじわと消えてゆく。消えてゆくのは愛されていないからだと豪語する地図製作者の父も、ある日、「私」の目の前で非物質化して……というのが表題の由来。


 ヴォルマンの「失われた物語たちの墓」は、エドガー・アラン・ポーの人生と作品を素材にした文字通り幻想的な短篇だが、「完全な意味での男性でない」エディー(ポー)への敬愛がそのまま何ともいえない悲しさとなって全編をひたしている。


 ミルハウザーの「雪人間」は、一読、怖くない。ある朝、目覚めると、外は銀世界。すごい大雪だったのだ。少年たちは歓呼して跳びまわる。人々は競って雪人形を作りはじめるが、その凝りようがすごい。町は白い雪人間に征服されて……ということで、少年少女時代の興奮がよみがえってくるわけだが、むろん雪は溶ける。見事なのは、雪人間が溶けて変形し、怪物となってやがて消えてゆく過程の描写で、まさに非物質化そのもの。やはりほんとうは怖いお話なのだ。


 カルファスの「見えないショッピング・モール」は、カルヴィーノのパロディだが、消費社会を徹底的にからかったブラック・ユーモアになっていて、これも怖い。ブラウンの「魔法」は中世物語の、ベイカーの「下層土」はいわゆる恐怖小説のパロディとして面白いが、やはり怖い。


 だが、怖さの筆頭は、やや古いが、オーツの「どこへ行くの、どこ行ってたの?」で、これは九篇のなかでは異質だ。明確な他者が登場するからである。ちょっと生意気になった思春期の女子高生がひとり留守番する昼日中、不良青年がふたり、ドライブに出かけないかと誘いに来るという話。友人ではない。ちょっと見かけただけの男だが、女子高生のことは家族構成から何から調べ上げている。ストーカーに近い。ほとんど催眠術のように誘いの言葉をかけつづけ、後ずさりする女子高生をついにはおびき出してしまう顛末(てんまつ)がじつによく書けていて、ほんとうに怖い。


 幻想小説はたいてい人間ひとりの妄想を核にする。夢に似ている。オーツの短篇はしたがって幻想小説からは遠いわけだが、にもかかわらずここに場所を得ているのは、男の暴力性が言葉の力、幻想の力として描かれているからだ。人間にあっては暴力も言葉に帰着する。「ワールド・カップ二〇〇六」でのジダンの行為を思い浮かべてしまうが、もっとも怖いのは言葉の力なのだ。オーツの短篇は文学こそ暴力の本質を解明できるものであることを示唆している。


 短篇集最後を飾るのはリンクの「ザ・ホルトラク」。トルコ語で幽霊を意味するという。終夜営業のコンビニの話だが、じつはこのコンビニ、この世とあの世を結ぶ境界線に位置しているのである。近くには、ほとんど毎夜、犬が殺される動物シェルターがある。コンビニで働く二人の男とシェルターで働くひとりの女を軸に物語は展開するが、夜毎(よごと)、ゾンビが客として登場するなどきわめて非現実的だ。にもかかわらず奇異に思えないのは、終夜営業のコンビニそのものがどこか非現実的だからだろう。この短篇の怖さはゾンビの怖さ、あの世の怖さなどではない。全世界がコンビニ化している現代そのものの怖さなのだと思わせる。


 実際、アメリカの短篇も日本の短篇もいまやほとんど違わなくなってしまった。いや、全世界の短篇が違わなくなってしまったのではないか。全世界が均質化している以上、当然のことだが、喜ぶべきか悲しむべきかは別として、ある意味ではこれがほんとうに怖いことなのかもしれない。


 もっとも、この種のアンソロジー、現代日本の小説ではあまり試みられてはいないようだ。個人短篇集のほうが多い。おそらく文芸雑誌がその役割を果たしているのだろう。とはいえ、日本にだって現代日本幻想小説集があってもいいと思わせる。


毎日新聞 2006年7月23日 東京朝刊

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