◇『尖塔-The Spire』
◇建築にかかわった神父らの物語
神父們與建築的故事
ストーンヘンジというのは、日本ではピラミッドと同じくらいに有名なので、どこの国にある何だという説明などまったく不要だろう。ともかく英国南部にあるこの有名な古代の巨石の遺跡の近くに、一三世紀に建造されたやはり有名なソールズベリ大聖堂がある。一二三メートルの高さの尖塔をもつ有名な観光名所でもある。
巨石群在日本就跟金字塔一樣有名,完全不需要解釋是位於哪個國家的什麼東西。其中在英國南部知名的巨石群遺跡附近,矗立著十三世紀建造,同樣舉世聞名的沙里斯伯利大教堂(Salisbury Cathedral),此大教堂是以一二三公尺高的尖塔聞名的觀光勝地。
こんな観光案内から始めたのは、ゴールディングの小説『尖塔』がまさしくその実在する尖塔の建築をモデルにしているからだ。別に大した理由があったわけでもないかもしれない。なにしろ彼はこの大聖堂のすぐそばの学校で二〇年近くも教師をしていて、毎日それをながめていたわけだから。
以旅遊景點介紹起頭,完全是因為高登的小說『尖塔』就是以實際上真正存在的這座尖塔為創作靈感。他或許沒有什麼冠冕堂皇的理由,再怎麼說他都在這座大教堂旁的學校從事了將近二十年的教職,每天眺望著這座大教堂。
問題は、この小説がどのような性格のものになったのかということ。時代的には、イングランドはまだカトリックの支配下にあった--となれば、宗教と政治権力の対立を大枠にして、そこに恋愛ドラマを絡ませるとか。古代の宗教とカトリックの対立、外敵の侵入などによってプロットの枠組を作り、そこに信仰と愛を絡ませるとか--いずれも外れである。『尖塔』は単純な歴史小説などではない。ノーベル文学賞も受賞するほどの小説家ゴールディングの構想力はそんななまやさしいものではなかった。
問題在於,小說具有怎樣的風格。時代上,英國仍信仰天主教-在這樣的背景之下,故事可能以宗教與政治權力的對立為主軸,從中展開戀愛情節,或是以古代宗教與天主教的對立、外敵入侵做為劇情的基本架構,從中再與信仰和愛相連。不管哪種猜想都錯。『尖塔』不是一部單純的歷史小說,諾貝爾文學獎得主的小說家高登所擁有的構想力可不是如此簡單。
読み始めたときの印象は、これはイギリス産のヌーヴォー・ロマンか、と言っていいくらいのものだ。しかもそこに、「おととい連中は人を一人殺しましたよ」、「そのうち連中はあたしを殺します」といった科白(せりふ)までちりばめられている。とても読み流しのできるような作品ではない。ゆっくりと楽しむに値する文学作品だ。「もう一度まばたいて、すぐ間近なところで一つ一つの埃(ほこり)の粒が、そよ風にあおられたウスバカゲロウさながらに、互いに身をかわしたり一緒に宙をはねたりするさまを見つめた」。たとえ本筋には関係がなくとも、文章そのものに魅了されだすと、もうたまらなくなる。「首がズキズキ痛むのもかまわず、花畑を駆け抜ける子どものように有頂天になって立ち続け、ついには広がりゆく空の断片がぼやけ、きらめき落ちる滝となった」
一開始閱讀此書帶給我的印象是,這或許可歸類為英國式的新小說。尤其是小說中充滿著「前天那些人殺了一個人」、「總有一天他們會殺了我」這類的對白,非常難以隨興所至的閱讀,而屬於值得細心品嚐的文學作品。「再眨次眼,近處那一粒一粒塵埃就像隨風飛舞的蟻獅,你會看見他們不時交錯,或一同在空中舞動。」。即使與故事主題無關,一但讓文章本身給吸引住,可是會無法自拔。「不管脖子上的陣陣刺痛,我像個奔向花田的孩子般興奮的站著,終於廣闊的天空碎片模糊,變成閃爍的瀑布。」
『尖塔』は政治抗争や宗教対立とは無縁である。それは、尖塔の建築を推進した聖堂参事会長をつとめる神父と、彼にしばしば反発しながらも建築にかかわる職人たちの物語である。百メートルを越える尖塔をいかにして作ってゆくのか。にわかには信じがたいかもしれないが、この小説はそのときの技術的なプロセス、苦労、心理を描いてゆく。言ってみれば建築小説なのである。
『尖塔』與政治鬥爭或宗教對立無關,而是個有關身為促進尖塔建立的教會參事會會長的神父,和不斷反抗他,還一邊持續進行建築工程的工人們的故事。超越一百公尺高度的尖塔要如何建成。或許叫人難以置信,這部小說描寫了當時技術上的過程、辛勞和心理,可說是部建築小說。
空にのびてゆく尖塔を内側から見上げる神父、半ば完成した塔から周囲の風景を見渡す神父、そして尖塔の最後の仕上げを前にしての職人たちの不安。離脱。尖塔の上部から下を見おろすときの、あたかも地獄をのぞき見るかのような恐怖。完成を心待ちにしながらも、天使と悪魔の両方にとりつかれているように感ずる神父。こんな設定の小説は他には例がないだろう。
從尖塔內側仰望向天空伸展尖塔的神父,從半完成的塔眺望四周風景的神父,以及面對尖塔最後完成階段時感到不安的工人們。脫離。從尖塔上方往下看,就如同窺視地獄般的恐怖。就算滿心期待著完成一刻,神父感到自己彷彿同時被天使與惡魔纏身。如此情節設定的小說可是史無前例。
もちろん作者としてはハッピーエンドの結末をもってくるわけにはいかなかったろう。ジョスリン神父は死を前にして、「私は建物で、その中に巨大な地下室があり、鼠(ねずみ)がうようよ生きている」と述懐するにいたる。偉大な仕事をしているつもりが、破壊と憎悪を生みだしただけだったと後悔もする。しかし読者は、作者のそのような表面的な身振りにもかかわらず、彼のことを記憶しつづけるはずである。(宮原一成、吉田徹夫・訳)
身為作者當然不會給予故事完美結局。賈斯林神父在死前有感而發的說道,「建築物之中有個巨大的地下室,老鼠在其中橫行存活。」。從中可以看出原本預計從事偉大功業,最後只生成破壞以及憎恨的懊悔。即使作者做出這麼一套表面功夫,讀者還是會將他的事蹟永遠留存腦海。
毎日新聞 2006年8月13日 東京朝刊