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(岩波新書・777円)

 ◇「欠如ゆえの過剰防衛」の秘密

 以前、夏目漱石がフランス文学をどう評価しているか気になって調べたことがある。総じて点が辛い中、モーパッサンの『ピエールとジャン』だけは例外的に激賛されていた。『ピエールとジャン』とはこんな物語だ。母親の愛が弟のジャンに片寄っているため偏屈な性格になった兄のピエールは美しい未亡人に恋しているが、未亡人はジャンを愛しているので嫉妬(しっと)に苦しむ。あるときジャンに未知の男から莫大(ばくだい)な遺産がころがりこんだことから、ピエールは弟が母親の不義の子である事実をつきとめ、自分が愛されなかった理由を知る。母親への愛と憎しみ、弟への嫉妬、そして、それらを克服できない自分への嫌悪感。こうした感情に悩み抜いたピエールは太平洋航路の船医になって家庭を去っていく。

 フランス文学畑の人間からみると『ピエールとジャン』は佳作だが、漱石の言うほどの大傑作ではない。ために、どうして漱石がそれほどこの作品にほれ込んだのかいまひとつ理由がわからなかったが、本書を一読して疑問は氷解した。ピエールとは漱石自身であり、「母に愛されなかった子」ピエールの懊悩(おうのう)は漱石の懊悩そのものだったのである。

 著者によれば「母に愛されなかった子」漱石というテーゼを証明するには『坊っちゃん』一つで足りるという。げんに坊っちゃんは、おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった、母は兄ばかりを贔屓(ひいき)にしていたと語る。坊っちゃんに仮託した漱石の母親への心の屈折が明らかになるのはその死に際してのエピソードである。母が病気で死ぬ二、三日前、坊っちゃんは台所で宙返りして肋骨(ろっこつ)を打ち、母から叱(しか)られ、おまえのようなものの顔は見たくないと言われる。母親の言葉は怒りの強さを示すレトリックなのだが、坊っちゃんはこれを字義どおりに受け取り、じゃあ、消えてやるよと、親戚(しんせき)の家に泊まりにいって親の死に目に会えずに終わる。

 こうした、愛する相手がこちらの要求するレベルで愛に応えてくれないと、「なら、いい!」とふて腐れ、捨て鉢な態度に出て、それによって余計傷つき、人も傷つけるという愛情表現の空回りのドラマこそが漱石文学の根幹を成すと著者は考える。「母親に愛されていないのではないかと疑い、疑ったことを後ろめたく思い、その後ろめたさを打ち消すために、これだったら愛されないに違いないという証拠を自分から作っていく、そうして疑いを正当化する」。坊っちゃんの態度は漱石自身に巣くう愛情乞食(こじき)の投影なのだ。

 こうした欠如ゆえの過剰防衛的性格は、母親が登場しない『草枕』や『虞美人草』、さらには『三四郎』『それから』『門』の前期三部作でも、また晩年の作品でも男女関係に転位され、大きなライトモチーフとなっている。このあたりの分析は見事というほかないが、ひとつだけ挙げるなら『それから』で三千代が代助に「なぜ捨ててしまったんです」と問い詰めるクライマックスの解釈だろう。「なぜ捨ててしまったのか、というのは、幼い漱石が、母に対して投げかけたかった問いにほかならなかった。投げかけたかったけれども、投げかけずに終わってしまった問い、そうして、捨てられるくらいなら、こっちから捨ててやるという論理にしがみつき、そういう煩悶(はんもん)から超然とすべく漢籍に走り、表現者への道を選んだ、そのきっかけになった問いにほかならなかった」

 親と子の、そして男と女の永遠に終わらない愛の齟齬(そご)。漱石の現代性を改めて浮き彫りにした傑作評論である。


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