(岩波新書・735円)
◇「劇についての劇」の先駆者を発見
『ロミオとジュリエット』は有名な恋の悲話だが、冒頭にコーラスと呼ばれるおかしな人物が登場する。進行係、あるいは解説係とでもいうべき人物で、これが芝居の粗筋をあらかじめ観客に知らせてしまうのである。
おかげで観客は若い恋人の浮沈に同情するだけではなく、すでにわかっている宿命にもてあそばれる姿を、いわば高所から見下ろすことになる。運命に抗(あらが)う人間に痛切な共感を覚えながら、同時に距離を置いて、その無意味さを知的に眺めることを求められる。
そういえばシェイクスピアにはギリシャ悲劇のような、アリストテレスが『詩学』で定義したような古典的な悲劇は一本もない。どの場合も主人公は開幕冒頭に登場せず、脇役が先に現れて主人公の行く末をある程度まで予告する。いわば観客は作者と共謀の関係に立って、状況を知らない主人公の悪戦苦闘を半ば突き放して見ることになるのである。
誰もが知るハムレットも世評とは違って、叔父クローディアスの悪事を自力で暴き、確信をもって父の復讐(ふくしゅう)を遂げる聡明な人物ではない。悪事の真相はつねにハムレットのいない場面で洩(も)らされ、観客だけがそれを作者から直接に教えられる。当のハムレットは疑心暗鬼に苦しみながら、最後まで運命に振り回される姿を観客に見下ろされるのである。
シェイクスピアはその意味で近代写実劇とも異なり、観客に主人公の感情と一体化することを許さない。それは現代前衛演劇のブレヒトに似て、観客に人物を批判的に見させる「感情異化」の演劇を思わせる。だがより厳密にはそれはローマに発し、当時広く受容された「世界劇場」の思想を体現していた。
世界は劇場、人間はすべて登場人物だと見なし、そうすることで現実の苛酷(かこく)さを忍ぼうという思想だが、この標語はシェイクスピアの劇場「グローブ座」にも掲げられていた。だが世界が劇場なら、実際の劇場の芝居はその「劇中劇」ということになるはずで、シェイクスピアは事実、その自覚を抱いて芝居を書いた、というのが著者の主張である。
劇を劇中劇として書くとは、観客に劇場を意識させることであり、現実ではなく芝居を見ているのだという醒(さ)めた目を持たせることである。主人公は露骨に劇中人物として扱われ、作者と観客に操られて、自分では世界を支配できない地位に置かれることになる。
現に『お気に召すまま』のように、登場人物が直截(ちょくせつ)に「世界劇場」の思想を語り、自分でそれを意識している場合もある。だがじつはすべてのシェイクスピアの主人公は劇中劇の人物であり、その作品は劇についての劇なのだ、というのがこの本の含蓄だともいえる。
劇についての劇は「メタ・シアター」とも呼ばれ、現代演劇の一つの手法として語られることもある。しかしこの本を読むとこれはたんに作劇の一手法などではなく、シェイクスピアを頂点とするあらゆる芝居書きの理想ではなかったか、という実感が湧(わ)いてくる。
すべての劇作家は自作の再演を夢見るし、傑作は歴史に残って繰り返し上演される。だがその場合、観客は粗筋をあらかじめ知っていて、はかない主人公を見下ろしながら、人生とは一編の芝居だと思い知ることになるからである。
著者は本格的な英文学者だが、ハロルド・ピンターの代表的な翻訳者でもあり、劇評の筆もとる演劇学者である。舞台を知り、観客を知り尽くした研究者ならではの、シェイクスピア解釈の決定版の一冊だろう。
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