(岩波書店・2730円)

 ◇日常の物語に潜ませた技巧の数々

 長篇小説『石蹴り遊び』で知られるフリオ・コルタサルは、長篇の他にも生涯に九冊の作品集、総計にして百を超える数の短篇を書き、独得の作風を持った幻想短篇作家としても定評がある。このたび邦訳された『愛しのグレンダ』は、一九八〇年に出たもので、八冊目の短篇集に当たり、収録されている十篇の短篇は、いずれもコルタサルの個性が存分に発揮された作品揃(ぞろ)いである。

 コルタサルの作風を説明するには、同じラ・プラタ地域の幻想短篇作家としてしばしば並び称される、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと比較してみるのがいいだろう。ボルヘスの短篇は、どれを読んでも淡々とした語りのトーンが一定していて、むしろ一本調子と言ってもいいくらいで、そこに技巧が凝らされることは少ない。ところが、それに対してコルタサルの短篇は、語りの技巧の博覧会とでも言えそうなほど、一作一作が凝りに凝っていて、同じ手は二度と使わないと決めていたのではないかと想像してみたくなる。その傾向はこの『愛しのグレンダ』にも顕著で、複数の視点の切り替えや、多声によるコンポジションといった、コルタサル得意の手法がうかがえる。たとえば、後者の見本としては、バッハの有名な『音楽のささげもの』をもとにして、八人の登場人物が八つの楽器を象徴し、物語の進行が楽章の展開をなぞるという構成を取った短篇「クローン」が挙げられるだろう。

 もっとも、こう書くと、難しそうな実験小説かと受け取られるかもしれないが、実はそうではない。なるほどたしかに、コルタサルの短篇は、いささか粘着質で趣向に富んだ語り口のゆえに、読者にある程度の注意力を要求する。しかし、コルタサルの小説技巧は、彼自身の言葉を借りれば、あくまでも「深いところにはりめぐらした蜘蛛(くも)の巣」である。そして、彼がつねに描くのは、遊戯的な実験性とは縁遠いように見える、欲望、情熱、復讐(ふくしゅう)、暴力、殺人、姦通(かんつう)、背信、狂気といった、わたしたちになじみが深い卑俗で日常的な物語なのだ。おそらく、コルタサルとボルヘスの決定的な違いはそこにあるだろう。哲学的なエッセイかと見紛(みまが)うボルヘスの短篇には、ひんやりとした手ざわりがある。それに対して、コルタサルの短篇にはいわば赤々とした血が流れているのだ。

 だから、コルタサルを読むことはいつでもショッキングである。とりわけ強烈なのは、短篇「ふたつの切り抜き」で、パリに住むアルゼンチン人の女性が、三年前にブエノスアイレスで現実に起こった国軍による残虐行為の記事を読んだところから物語は始まるが、彼女がある家庭内暴力事件を目撃して、そこに不思議なかたちで巻き込まれることによって、ブエノスアイレスとパリ、過去と現在という離れた時空の二点が橋渡しされ、そこに超現実としか呼べないものが出現する。わたしたち読者は、現実から不思議な世界へスリップしてまた現実へと、まるでメビウスの輪を一周してきたような感覚をショックとともに味わうのだ。

 日本では、コルタサル最後の短篇集となった『海に投げこまれた瓶』がすでに一九九〇年に翻訳出版されている。その表題作は、実は『愛しのグレンダ』の表題作の後日談である。つまり、短篇「海に投げこまれた瓶」をもう読んでいる読者は、短篇「愛しのグレンダ」をまるで映画のフィルムを逆回しにしたように読むことになるわけで、これはいかにもコルタサル的な偶然ではないだろうか。(野谷文昭・訳)

arrow
arrow
    全站熱搜
    創作者介紹
    創作者 murasakia 的頭像
    murasakia

    murasakia

    murasakia 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()