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(新潮社・1260円)

 ◇現代的な文体で名作の感覚を一新

 誰もが知っている『ティファニーで朝食を』の、村上春樹による新訳である。それだけでもわくわくする。そして、期待にたがわない見事なできばえだ。半世紀前にアメリカで出版された作品が、装いも新たによみがえった。従来の訳との味わいの違いは歴然としていて、着物を着ていた女性がドレスにお色直しして颯爽(さっそう)と登場したような感じさえ受ける。

 村上春樹は小説家であるだけでなく、同時に翻訳家でもあり、仕事の時間のかなりの部分を翻訳に割いている。これは彼ほど有名な作家の場合、異例のことで、世界的にも類を見ない。たいていの作家はいったん地位を確立すると創作に専念し、翻訳などという「二次的」な仕事に携わるヒマはなくなるからだ。しかし、村上春樹の場合、翻訳は決して副業というようなものではない。

 最近、サリンジャー、チャンドラーといった「現代の古典」の新訳に意欲を見せる村上春樹が今回、取り組んだのはカポーティの名作だ。オードリー・ヘップバーン主演の映画(原作とはかなり違う)のほうがよく知られているが、原作の翻訳も古くから存在し、多くの読者に読み継がれてきた。龍口(たつのくち)直太郎による訳が新潮社から最初に出たのは、原作の出版のわずか二年後、一九六〇年のことで、この龍口訳は新潮文庫で七四刷にまで達した。

 では村上訳はどこが新しいのか。手っ取り早いところで、まず冒頭を比べてみよう。

 龍口訳「私はいつでも自分の住んだことのある場所--つまり、そういう家とか、その家の近所とかに心ひかれるのである。たとえば、東七十丁目にある褐色(かっしょく)砂岩でつくった建物であるが、そこに私はこんどの戦争の初めの頃(ころ)、ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った。」

 村上訳「以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド七十二丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。」

 語学的な問題は措(お)くとして、一読してすぐわかるのは、直訳的な龍口訳に対して、村上訳は「こなれている」だけでなく、カタカナをうまく使い、より現代的なスタイルになっていることだ(ただし、カタカナに頼るのは、私自身は必ずしもいいこととは思わない。本当は「ダーリン」をどう訳すかが、村上の天才の見せ所だと思うのだが)。

 もう一つ、タイトルにつながる、ヒロインのセリフはどうだろうか。

 龍口訳「ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。」

 村上訳「いつの日か目覚めて、ティファニーで朝ごはんを食べるときにも、この自分のままでいたいの。」

 ここでは、意外なことに村上春樹は「朝ごはん」というより柔らかい和語を選択している。この絶妙の文体感覚のおかげで、今回の新訳は現代の「日本語文学」の作品になっているのだと思う。

 龍口訳は、ティファニーが高級宝飾店であるということさえ日本では知られていなかった時代に訳された先駆的な素晴らしい業績ではあるが、日本中にティファニーのブランド・ショップがある時代には、そろそろ歴史的な役割を終えることになるのだろう。そうであれば、村上訳はタイトルも大胆に、「ティファニーで朝ごはん」と変えてよかったのではないか。清楚(せいそ)すぎるオードリーのイメージを払拭(ふっしょく)するためにも。(村上春樹・訳)


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