◇池内紀(おさむ)・評

 (アーツアンドクラフツ・2730円)

 ◇「古い心持」とその崩壊を聞き取った人

 いつのころにか「野村純一」の名前を覚えた。昔話の研究を通してである。ひと味もふた味もちがう。性急に意味づけをしない。語り手の言葉を大切にする。ときには息づかいまでも注意する。その人の記憶のなかに蓄積された世界への深い敬意がある。

 口承文芸学で知られた人だ。大学で教え、個性ある若手を育てた。みずからもせっせと採集の探訪をつづけ、貴重な聞き取りをまとめていった。昨年六月、死去。七十二歳だった。

 病床の間にも『定本 関澤幸右衛門昔話集--「イエ」を巡る日本の昔話記録』(二〇〇七年二月、瑞木(みずき)書房)を仕上げた。ここでは、ながらく日本の「イエ」を支えてきた媼(おうな)が語り継ぐ。あわせてタイプ版に記録していた昔話を合本にした。この世への置き土産という心づもりがあったのではなかろうか。教え子の小出版社が丁寧な本づくりをした。目を細めて昔話を聞くようなエピソードである。

 『昔話の旅 語りの旅』には、一九七〇年代半ばから二十年あまりの間につづられた二十四編が収めてある。雪国が昔話の宝庫であって、主に囲炉裏(いろり)で語られてきた。それはよく言われることだが、そこで聞き取った話と類話を引きくらべ、雪国に生きる人々の「屈曲した発想を垣間見る思い」を書きとめるのは、なかなかできないことだろう。

 「こうした昔話の語り手たちは、いったいに古風で、仕来りを叮嚀に守るのが習いである」

 きっと聞き手もそうだったのだ。さもないと昔話がその底にとどめている「人々の古い心持」にまではとどかない。

 山姥と桶屋の話、魚の背に乗ってきた男の話、人参と欲張り婆さんの話、女房の首の出てくる話。それぞれに「山の昔話」「海の昔話」「里の昔話」「町の昔話」と添えられている。野村口承文芸学が、つねに社会性の眼差(まなざ)しを忘れなかったしるしである。

 しかし、教条的な図式をあてはめたりはいっさいしない。話の取りあげ方が慎重で繊細だ。古い伝説、先学の採録、ちらばっている同系統の話、さらに自分たちの採集例を比較する。そこに「心情の共通して流れている」のを確かめる一方で、話の内容の変化に目をとめる。

 「……神から鬼へ、そしてさらに鬼から猪、つまりは化生(けしょう)の物へとそこでの主人公を落魄(らくはく)させ、伴って、話そのものの構図もひとたびは神の話から鬼の伝説へ、そしてなお近辺の世間話風なものへと移行していたのである」

 にもかかわらず、すべてを貫いている「本体」にあたるものがあって、どんなに話の内容が変化しても、語り手はその一点に拘泥する。昔話の核であって、「いのち」にあたるものと思っていい。

 書かれたのが一九七〇年代半ばからであることを思い出そう。昔話のよき語り手たち、翁(おきな)や媼といったいい方がぴったりの風格ある人たちは明治の半ばすぎに生まれ、当時すでに八十歳台だった。大切な記憶の持主が一人、また一人といなくなる。誠実な学者野村純一には、したり顔した民俗学論議や柳田国男批判よりも、いままさに果たさなくてはならない意識があったにちがいない。消え失せるものを瀬戸ぎわでつなぎとめる。

 だからこそ話の「崩壊」を語るところが印象的だ。語り継がれる昔話に、ある変化がはじまった。「生活感のこもった言葉の確かさ」が、いたるところで崩れ、物語の骨組は同じでも、まるきりちがった話に感じられる。かたちだけとどめているだけに、それは本質的な変化とみなしていい。

 昔話の「崩壊」は、高度成長期といわれる時代と二人三脚のようにはじまった。テレビを主体とする新しいメディアが、とめどなく家庭に入ってきた。とりとめのない都市文化が、わがもの顔で押し入ってくる。昔話に特有の表現のリズムは、記憶の蓄積と地に根ざした里の暮らしがやしなったものであって、話がくり返し再生するのも聞く者たちの絶妙な合いの手があってのこと。「昔話の旅」が期せずして、まるで精巧な地震計のように、崩れの目盛りをしるしている。

 後半の「語りの旅」では、インドや中国に及ぶ昔話の変容が興味深い。中国山西省で「ねずみの嫁入り」の絵と対面するのはうれしいことだ。

 北インドを旅していたとき、野村先生は超満員の列車にやっとのことで乗りこんだ。しかし、すわる席がない。そのときターバンを巻いた七十歳ぐらいの人が、自分の荷物に腰かけさせてくれた。そしてインド訛(なま)りの強い英語であれこれ問いかけ、そのあげく「いいかしっかり頼んだぞ」と言い置いてグーグー寝てしまった。

 インドの老人はこの日本人をさりげなく吟味し、心から信頼して荷物をゆだね、やおら熟睡に入ったにちがいない。

arrow
arrow
    全站熱搜
    創作者介紹
    創作者 murasakia 的頭像
    murasakia

    murasakia

    murasakia 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()