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◇『アドルノ伝』=シュテファン・ミュラー=ドーム著

 (作品社・8190円)

 ◇『アドルノ 政治的伝記』=ローレンツ・イェーガー著

 (岩波書店・3990円)

 ◇60年代の知的ヒーローを描く評伝2冊

 ずっと昔の人の伝記を読むときには、安心感というのか、奇妙な優越感というのか、何かそうしたものがあって、なんとなく心のゆとりがもてるものだ。しかし、生きた時代が自分と重なり合う誰かの伝記となると、そうもいかない。かつての記憶が蘇(よみがえ)り、懐しさを覚える一方で、胸騒ぎがしてくる。

 大学生協の書籍部の棚にはマルクス=エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東、金日成の本が並び(サルトルの翻訳もずらりと並んでいたが、その装丁、内容とも私には合わなかった)、ルカーチの『歴史と階級意識』も人気のあった頃(ころ)、私にとって誰とも共有することのできないヒーローはエルンスト・ブロッホだった。今から四十年も前のこと。そして、その彼とならんでベンヤミン、アドルノ。そのアドルノの伝記を二冊、今眼の前に置いて、胸騒ぎを覚える--もちろんあの頃は予想することもなかった事態だ。

 「ねじのように螺旋(らせん)状に曲がりくねっている塔を思い起こさせ」る独特の文体で、マルクス主義の新しい可能性を切り拓(ひら)いたアドルノ。フランクフルト学派の「批判理論」を体現した彼。

 「文化産業は、個々の主体の差異を消し去って社会の機能に変えてしまうことに成功した。その結果、文化産業に完全に取りこまれてしまった人々は、もはや葛藤(かっとう)を覚えることもなく、自分自身の脱人間化を、人間的なことだと思って、暖かい幸福だと思って楽しむのである」。『啓蒙の弁証法』の中のこの有名な一節は今も生きている。今われわれがひたりきっている文化状況への批判としても、その力を十分に発揮する。本来左翼的なリベラリズムを土台としてもっていたカルチュラル・スタディーズ(文化研究)も、アドルノの言葉から力を得ることができたはずである。

 一九六八年前後に学生であった者にとって、彼は間違いなくヒーローであった。その時代の西ドイツの若者たちの知的な雰囲気を、ある鉄道の「駅構内の本屋」が証言している。「私どもの店でどのような本がよく売れているかをお知りになったら、きっと驚かれるでしょう。売り上げ冊数の多い順で言えば、ブロッホ、ヴィトゲンシュタイン、アドルノ、ベンヤミンです」

 このような人物の、思想家の伝記というのは一体どのようにしたら書けるのだろうか。まわりを囲むのはクラカウアー、ブロッホ、ベンヤミン、ホルクハイマーから、のちのハーバーマスにいたるまで、それこそ二十世紀のドイツ語圏を代表する思想家のほぼ全員なのだ(無論ハイデガーも絡んでくる)。彼はさらに小説家トーマス・マンとも親交があって、小説中の某人物のモデルとなっているし、作曲家アルバン・ベルクやシェーンベルクとも交友があって、みずから作曲もした。

 さらにやっかいなのは、オックスフォード大学に留学してフッサールの現象学を研究し、そのあとアメリカに渡って仕事をしているということだ。そこでの人脈をどう扱うのか。そもそも英国での「アドルノの博士論文の世話役はギルバート・ライルで……アドルノは、ライルを明らかにとても学識のある会話の相手と評価した」。まさしく分析哲学と批判理論の出会いという呼び方をしたくなるくらいだ。一体こんな人物の評伝をどのようにして書くというのか--ハイデガーとハンナ・アーレントの恋愛関係ほどではないにしても、女性も(そして男性も)多少は絡んでくるのに。前衛音楽にのめり込んで、多量の音楽評論を書く一方で、ジャズを巧みに演奏し、プレスリーは好きになれなかった彼。

 このような人物の場合、伝記の書き方は二通りしかない。そのひとつは、ともかく可能なかぎりの事実を取り込んで、長大なものにするという方法である。それをやったのがミュラー=ドームの『アドルノ伝』。翻訳は上下二段組で、七〇〇頁(ページ)を越える。日本ではこれだけ長大な評伝というのは珍しいかもしれないが、例えば伝記マニアの国イギリスではこうした例は多々ある。読者としては、ただ時間をかけて読めばいいだけの話だ。この評伝は二十世紀前半の雄大な思想史、社会文化史ともなっている。

 もうひとつは、和田誠的伝記。つまり、極力簡潔に対象の特徴を際立たせるもの。イェーガーの『アドルノ』はそれをめざしたのかもしれないが、短い簡潔なものにはならなかった。但(ただ)し、これは彼の責任ではない。アドルノが面白すぎるのだ。「アドルノが代表した知識人型のマルクス主義は、私にはもう維持不可能に思えた」と宣言した上でのこの思想史的評伝は、批判、裏話も含めて、実に刺戟(しげき)的な一冊となっている。(『アドルノ伝』は徳永恂・監訳/『アドルノ』は大貫敦子、三島憲一・訳)

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