◇傑作を「はじめて読む興奮」与える新訳
青年時、一度読めば決してその圏内から逃れることのできない小説は大概(おおむね)十九世紀のものだ。最右翼がこの『赤と黒』だ。
なぜ十九世紀小説か。小説自体が新参・田舎者で、エンターテイメントの王に成り上がろうと必死だったし、田舎の青年が首都に出て何事かを成そうと野心満々だったからだ。小説がこういう青年を主人公に据えるのは、小説という形式の発生そのものに関(かか)わる内的要請だったのである。そして、青年期というのは、常に十九世紀的なのだ。何者でもない、何者かになろうと足掻(あが)いている無名の田舎青年。その最も美しい典型が『赤と黒』のジュリヤン・ソレルだ。
それにしても、何という美しく壮絶な物語だろう! 十七歳のときに初めて読み、二十歳のとき再読、以降何度読んだか。訳本はごっちゃで、桑原武夫・生島遼一訳(岩波文庫)、小林正訳(新潮文庫)、大岡昇平・古屋健三訳(講談社文庫)などなど。
私の中には三つの訳文が三重刷りで記憶されている。ジュリヤンの記憶力には及ばないが。何しろ彼はラテン語聖書を全部暗記している。圧巻はクーデター密議の内容を記憶し、彼自身が密書となって国境を越える章だろう。彼がレナール町長に家庭教師として雇われるのも、パリの大立者ラ・モール侯爵の寵(ちょう)を受けるのも超人的な記憶力による。だが、彼がすべてを丶忘れて行動した瞬間、破滅する。この破滅こそ美しい。
今回は、およそ三十五年ぶりの新訳をまっさらな気持で、初訳として、つまりすべてを丶忘れて読みたい。なぜなら、これほどの大傑作をはじめて読むという興奮を六十になって味わうことは、自分を若返らせることだと勝手に空想したからである。新訳はそれに丶応えてくれるだろうか。
先(ま)ず、有名な冒頭の文章。
ヴェリエールは小さいながらも、フランシュ=コンテ地方でもっとも美しい町の一つといってよい。
丶小さいながらも……、うん、いいぞ。ここは他の諸訳では、「小さなヴェリエールの町は」「ヴェリエールというその小さな町は」だから、のっけから違うぞ。
泣きべそを掻いたばかりで、大粒の涙を頬(ほお)に光らせたジュリヤンに、レナール夫人が「ご用はなんですか、坊や」とたずねる。ジュリヤンはレナール夫人のやさしさにあふれたまなざしと美貌(びぼう)に驚く。だが、この少年の心には狂暴な野心が渦巻いていた。数カ月後に夫人の耳にこうささやく。「奥様、今夜二時にお部屋にまいります。お話ししたいことがあります」
このとき、レナール夫人がどう丶応えたか。それを野崎氏が次のように再現したとき、世界文学史上、比類なく美しく崇高で、やさしく魅力あふるる女性、レナール夫人の肉声がほんとうにひびいて、私は震えた。
レナール夫人はジュリヤンのずうずうしい、向こう見ずな提案に、誇張ではなく本気で腹を立てて答えた。ジュリヤンには手短な返事に、軽蔑の念がこもっている気がした。小声で発せられた返事の中に、「何よ、まったく」という言葉が確かに聞き取れた。
「何よ、まったく」。ああ、レナール夫人のこのせりふ。これがターニング・ポイントだった。ここから断頭台でジュリヤンの首が斬り落されるラストまで、すべての既訳文は完全に消え去り、丶忘れて、まるで噂(うわさ)に聞いていた百七十年前のフランス恋愛小説の大傑作にやっと巡りあえたとばかりにむさぼり読んだ。小林訳では、丶まあ、丶なんてこと! 大岡・古屋訳でも「丶まあ、丶なんてことを」である(傍点はママ)。
それにしても、この物語のラストの凄(すご)さ、美しさに比肩しうる小説はない、と確信した。ジュリヤンのもう一人の恋人、マチルドは彼の生首を膝にのせてキスし、レナール夫人はジュリヤンが死んで三日後、わが子たちを抱きしめながら息絶える。
斬り落とされる間際ほど、この頭が詩的だったことはなかった。かつてヴェルジで(ヴェリエール近郊のレナール氏別邸で、夫人と=辻原注)過ごしたもっとも甘美なときの思い出が次々と、鮮明に蘇ってきた。
このラストから、再び冒頭に返ると、先に引用したあの有名な文は、すでにジュリヤンとレナール夫人の死に染め上げられていることが分かる。傑作小説の深い生理だ。
ところで、レナール夫人の愛し名(ファーストネーム)はこの千ページもある物語でたった一度しか口にされない。それはどこで、誰によってか? これと同じことが、もうひとつの十九世紀を代表する傑作恋愛小説、フローベールの『感情教育』(これも千ページある)でも起きている。アルヌー夫人のファーストネームは? ふしぎで眩惑(げんわく)的だ。野崎氏の次の訳は『感情教育』で決まりだ。(野崎歓・訳)
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