(岩波書店・3045円)

 ◇物語に突き刺さった幾つもの棘

 小説であれ紀行であれ、ナイポールの作品を読んでいると、世界の現在にじかに触っているような気分になる。この地球上のさまざまな場所にいま現に生きている人々の、その生きている現場に立ち合わせられているような気分になってしまう。

 最新作『魔法の種』もそうだ。描かれているのは、半分はゲリラの生活、半分はロンドンの中流知識階級の生活。とはいえ、いずれも中年のインド人、ウィリー・チャンドランの体験なのである。四十になって離婚して、ベルリンに住む妹のもとに身を寄せたウィリーは、理想主義者の妹に説得され、ほとんど二十年ぶりにインドへ帰り、下級カースト解放のためのゲリラ闘争に加わるという設定である。ゲリラはゲリラである。イラクからパキスタンにいたるそれを連想させずにはおかない。闘争の徒労のなかでウィリーは、自分の知性が朽ち果て、人格が崩壊してゆく思いに襲われ、結局は投降し、政治犯として拘置所に入れられ、禁固十年の刑を言い渡されるのだが、妹の働きで、かつての留学先ロンドンの友人と連絡が取れ、釈放されることになるという展開だ。

 要約すればほとんど滑稽譚(こっけいたん)だが、しかし興味深いのは物語ではない。主人公でもない。主人公の動きとともに登場する膨大な人間たちなのだ。闘争の指導者カンダパリ、連絡員ジョゼフ、その無言の妻、相棒ボージ・ナラヤン、ゲリラに志願してきたスクーター野郎とその貧しい兄夫婦そのほか、前半だけでもさまざまな顔がひしめいている。これら物語を過ぎる人々のすべてがそれぞれの人生を背負って、一瞬、読者の前に立ちふさがるのである。物語は水平に流れるが、彼らの人生はそこに垂直に突き刺さっていると思わせられる。数行の描写で突き刺さった棘(とげ)の深い部分までが露(あら)わに感じられる。人生観察家・ナイポールの類(たぐい)まれな手腕というほかない。

 ナイポールは、どれほど些細(ささい)な人物であっても、何を誇りにし何を恥として生きているか、じつに的確に見抜く。そして、きわめて具体的な誇りと恥こそが、その人間の政治的信条、宗教的信条などを軽く凌駕(りょうが)してしまうという事実を見せつけるのである。

 同じように、ナイポールはどれほど偉大な人物であっても、些細な誇り、些細な恥を生きていることを見抜く。いわゆる進歩的知識人に嫌われる理由だが、しかし、それこそナイポールを現代のドストエフスキーにしているところのものなのだ。ナイポールのメスはつねに、イデオロギーという皮膚を剥(は)ぎ、欲望という肉に達する。

 「世界に理想的な姿を求めるのは間違っている」とウィリーは最後に思う。これを「魔法の種を求めるのは間違っている」と言い換えてもいい。ペシミズムと言うべきだろうか。そうではない。「政治というものは人間の生活の中では原始的の下等なことだ」と述べた内藤湖南の言を深く考えるべきだろう。

 『魔法の種』は、ウィリーの父親の結婚の話から始めて、ウィリーのロンドン留学、ポルトガル系アフリカ人女性との結婚、アフリカでの生活、その破綻までを描いた『ある放浪者の半生』の続編だが、小説としては『魔法の種』から読み始めたほうが面白いかもしれない。自分はいまいったいどこにいるのかという浮遊感がいっそう強められるからである。前編、後編を逆にして読んだほうが面白いところに、ナイポールの小説の魅力の秘密が潜んでいると言っていいほどだ。

 訳文はじつに読みいい。(斎藤兆史・訳)

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