(文藝春秋・1300円)
◇平穏な日常に魔は潜む
いま犯罪が特別なものではなく身近なものになってきている。非日常と日常の境が次第にあいまいになっている。
長篇『八日目の蝉』で、赤ん坊を盗んで我が子のように育ててゆく女性を描いた角田光代さんが今度は、新聞の三面記事で小さく報道された犯罪事件に材を得て、その事件の背後にある世界を描き出してゆく。濃密な短篇集。
六つの事件が語られる。主人公はいずれも極悪人でもなければ異常者でもない。市井の普通の人々。平穏な日常を送っていた人間がいくつかの要因からいつのまにか犯罪を引き起している。我らの隣人の犯罪である。普通の人間を描き続けている角田さんらしい。
「愛の巣」は団地に住む若い主婦とその姉の物語。妹は一戸建ての家に住む姉が羨(うらやま)しい。いつか自分も団地から一戸建てに移りたい。数年後、優しい夫のおかげで夢が叶(かな)う。その頃から、姉が連絡して来なくなる。以前はよく電話して来たのに、連絡がとだえる。
妹が一戸建てに住むようになったのが嬉(うれ)しくないのか。不審に思った妹が姉の家を訪れると、家は異様な要塞(ようさい)のような姿になっている。姉夫婦に何があったのか。一方、妹は夫に愛人がいるばかりか高校生の子供までいることを知る。それまでの平凡な幸福が足元から崩れてゆく。小市民の平穏が実は不安と隣り合わせになっていることが浮き上がる。
「ゆうべの花火」は教材会社で働く女性が主人公。同僚の男性と付き合うようになる。始めは男性の方が熱心だったが、途中で彼女のほうが強く執着するようになる。関係が逆転する。恋愛は一種の権力関係。執着したほうが立場は弱くなる。独身だとばかり思っていた男性が実は結婚していたことが分る。動揺した彼女は闇サイトで彼の妻に嫌がらせをするように依頼する。それがエスカレートしてゆく。ここでも日常に魔が潜んでいる。
「彼方の城」は高校生と中学生の子供を持つ主婦(夫とは離婚している)が漫画喫茶で知り合った高校生と性的関係を持ってゆく話で、ばらばらになってゆく家族の荒(すさ)んだ光景が異様な迫力を持って迫ってくる。
少女を主人公にした二篇、「永遠の花園」と「赤い筆箱」は六篇の中でも出色。著者は、実際の三面記事に材を得ているだけで取材はいっさいしていないという。想像だけで事件の謎を追っている。その深い想像力と筆力には驚嘆する。犯罪の話なのに一篇の詩を読んでいるような透き通った緊張感がある。
「永遠の花園」は地方都市で起きた、二人の女子中学生が男性教諭の給食に薬物を入れた事件をもとにしている。二人の仲の良かった中学生が、その親密さゆえに思いがけない事件を引き起してしまう。二人の友情は直木賞を受賞した『対岸の彼女』の女子高校生たちの関係を思い出させる。とくに一方の女の子が相手の女の子に寄せる思い--ずっと一緒にいたい、が切なく胸を打つ。
マクドナルドひとつない地方都市の停滞感も実によく出ている。出来事が起る場所の負の力も少女たちに大きく作用しているのだろう。
「赤い筆箱」も凄(すご)い。高校生の姉が妹を殺してしまう惨劇だが、姉の心がゆっくりと壊れてゆき次第に妄想にとらわれてしまう心の揺れ動きが切実に描かれていて、この少女が次第に世俗から離れた超越的存在ではないかと思えてくる。ここまでくるともう犯罪というより、人間の心の闇を描いた小説として屹立(きつりつ)してくる。みごとというしかない。
認知症の母親の介護に疲れ果てた息子がついに母親を殺してしまう「光の川」は身につまされる。
毎日新聞 2007年10月28日 東京朝刊http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2007/10/20071028ddm015070062000c.html