◇現在のなかに歴史と神話が闖入する
ガルシア=マルケスの時間は独特のものだ。まず最後の審判を遙(はる)か彼方に想定するユダヤ=キリスト教的な時間がある。それは彼の奉じる社会主義思想とも微妙な形で関連があるかもしれない。黒人たちによってもたらされたアフリカ的=呪術的な時間がある。南米の基層としての古代中央アンデス文明的な時間がある。その底には氷河期に陸つづきになっているベーリング海峡を渡って来たモンゴロイドの先住民たちの血のなかを流れるアジア的時間があるかもしれぬ。この四つの結びつきによるラテンアメリカ的時間をどうすれば小説的にとらえることができるかは、初期のガルシア=マルケスの課題であった。
一九六一年に刊行された『大佐に手紙は来ない』は、かつて革命に参加して戦った大佐が、革命軍の降伏後、退役軍人に支給されるはずの恩給を待ちつづけるという筋。明日の食費もないのに体面を気にして金策に励まず、ひたすら恩給庁からの通知と、それから死んだ息子の形見として飼っている軍鶏(しゃも)が優勝するはずの闘鶏大会を待つ老大佐は、ラテンアメリカ的停滞の代表なのだろう。
『大佐に手紙は来ない』は、はじめ長篇小説『悪い時』の一部分だったのだが、長くなるので独立した作品にされた。その『悪い時』は住民を中傷するビラを不明の犯人が次々と貼りつづける或る町の不安と頽廃(たいはい)の記録で、六二年刊行。二作とも無為無策と徒労、失敗のくりかえしの物語で、筆力は豊かなものの小説的な魅力の点で物足りない。時間の性格も多層的でなく単純である。
それゆえ「ガルシア=マルケス全小説」の二巻目であるこの本を読んだ読者は、彼が三巻目の『百年の孤独』(六七年)でじつにとつぜんあの個性的な時間を表現するのに成功したことを知り、茫然(ぼうぜん)とするだろう。それは現在だけがある、現在の挫折と虚無感が反覆されるだけで過去も未来も実質的には存在しない生活への歴史と神話の闖入(ちんにゅう)であった。年代記的な茫漠とした言葉づかい、同じ名前の作中人物が何代もにわたって現れるブエンディア家の系図は、伝統による祝福のしるしである。マコンドの町の形成と消失をめぐる小説的世界は、複雑な時間の構造を得て花やかになり、頑丈になった。
似たようなことは四巻目の『族長の秋 他6篇』に収める短篇小説の傑作『大きな翼のある、ひどく年取った男』(六八年)についても言える。はじめ難破船の生き残りかと疑われたが実は零落した天使とわかる年寄りは、飼われ、見世物にされたあげく飛び去る。読者は心のどこかで、大天使ガブリエルが聖母マリアに処女受胎を告知して立ち去る栄光にみちた挿話を思い浮べ、対比するだろう。『百年の孤独』のヒントになったのは作家が幼いころに聞いた祖母の説話の語り口であったことは有名だが、その語り口と小説家の実務との関係を具体的に分析することはなされなかった。天使を飼いやがて見送る老女には祖母の面影がある。ジョイスの『ユリシーズ』やT・S・エリオットの『荒地』の神話的方法は、もっと貧しくてもっと汚れた風土へと応用されて特異な効果をあげた。
ヨーロッパ史および世界史を内包する形での植民地的ラテンアメリカ史の内面は、こんなふうにして発見され、定着された。そういう仕組の時間を、大統領から庶民までの日常のなかにとらえることが可能になったとき、ガルシア=マルケスにおけるヨーロッパのモダニズム小説の継承と展開が成立したのである。(高見英一他・訳)
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