◇『カラマーゾフの兄弟 全4巻+エピローグ別巻』

 (光文社古典新訳文庫・660~1080円)

 ◇画期的新訳で名作が「現代文学」になった

 何やら信じがたいことが起こっている。新訳版『カラマーゾフの兄弟』が爆発的な(というのはちょっと大げさだとしても)売れ行きを示しており、全五巻のトータルがもう二十五万部にも達したというのだ。『カラマーゾフの兄弟』といえば、重厚長大なロシア文学のうっそうたる森の中の近寄りがたい大木、名前だけは聞いたことがあっても長すぎて読み通せない、敬して遠ざけられる古典の代表格である。

 いまから考えてみると、亀山氏による新訳が出る少し前から兆候らしきものはあった。ドストエフスキーを絶賛する現代日本の作家には、加賀乙彦、大江健三郎から村上春樹、島田雅彦といった錚々(そうそう)たる顔ぶれが連なっている。そして特に『カラマーゾフの兄弟』は東大教師が新入生にすすめる本というアンケートで第一位に輝き、最近では若者に人気の高い金原ひとみまでがこの作品の圧倒的な面白さについて熱を込めて語っている。ドストエフスキーの現代的な「すごさ」を見直そうという機運が徐々に高まってきた中、ちょうどいいタイミングで新訳が出た。

 もっとも、十九世紀ロシア文学の古典新訳の機運はドストエフスキーに限ったことではない。光文社古典新訳文庫ではゴーゴリやトルストイやトゥルゲーネフがみごとに現代日本に甦(よみがえ)っているし、岩波文庫も最近トルストイの『戦争と平和』の新訳(藤沼貴訳)を刊行して注目された。しかし、特に異様な迫力をもって現代日本の読者に迫ってきたのは、やはりドストエフスキーだった。おそらくその秘密は、原作の力と翻訳の斬新さの両方にある。

 『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキー最高最大の作品であり、トルストイの『戦争と平和』と並ぶ世界文学の巨峰だ。ここには愛と憎しみ、淫蕩(いんとう)と純潔、三角関係、金銭欲と殺人、悪と恥辱、無神論と敬虔(けいけん)な信仰--要するにすべてが詰まっており、その作品世界ははるか後に生きる私たちの生を完全に射程に入れている。この小説には、生と死の根源的な問題をぐっとわしづかみにし、一度読者を虜(とりこ)にしたら離さない力が備わっているのだ。そして二十世紀の洗練された文学には希薄になった文学本来の醍醐味(だいごみ)が、強烈に感じられる。だからこそ、価値のよりどころを失いふわふわとした生活を送っている現代人がこれを読めば、頭をがつんと殴られたような快感を覚えるのだろう。

 もちろん、これまで何度も日本語に翻訳されてきた。翻訳の巨人、米川正夫による初めての完訳(現在では岩波文庫に収録)以来、最近の原卓也訳(新潮文庫)、江川卓訳(集英社、現在絶版)にいたるまで、少なくとも歴代八名の名だたるロシア文学者たちが次々に邦訳を手がけてきたのだ。しかし柴田元幸も言うように、「翻訳には賞味期限がある」。時代とともに日本語は変わり、訳文に対する読者の要求も変わってくる。また研究や批評の積み重ねの結果、テキストの読みが深まり、それを反映した新しい解釈が翻訳に求められるという事情もある。今回の亀山氏による新訳はそういった現代的な必要に応える画期的なものだ。訳文は驚くほど読みやすくなり、まるで現代日本の小説を読んでいるようだが、その一方で、作品の構造全体に対する訳者の目配りが随所に生きていて、まるで古ぼけた昔の映画がニュープリントで鮮明に蘇ったような印象を受ける。

 ただし、読みやすければいい、というものではない。また従来の訳がそれほど読みにくかったわけでもなく、私は以前の訳を四種類ほど引っ張り出して比べてみたが、先人たちの訳業の立派さに改めて感嘆した。問題は、ドストエフスキーの小説は様々な声が競い合う壮大な悲喜劇であり、妙な口癖が入り乱れた言語のカーニバルのような異様さがはたして翻訳で伝えられるかということだ。少なくともそういった側面は、あまりに滑らかなリズムの新訳からは伝わってこない。ちょうど英語圏でも長年読み継がれてきたガーネット訳(日本の米川訳に相当)に代わって、ペヴィア=ヴォロホンスキーによる新しい訳が出て話題になっているのだが、英訳では日本の一歩先を行き、原文の特性を活(い)かそうという新たな段階に入っているようだ。

 もっとも、私は亀山訳を批判したいのではない。そもそも、読みやすい口語体が平板になりがちなのは、現代の日本語じたいが抱える貧しさの問題でもあるだろう。ともあれ、現代人が楽に読み通せる訳を作り、ドストエフスキーの途方もない世界への導き手になった亀山氏の功績は巨大である。新訳のおかげで、いまやこの十九世紀ロシアの予言者は、9・11以後の世界の「現代作家」として新たな生を享(う)けつつある。文学作品とは、ある言語の土壌で一度限り起こった事件だ。翻訳とはそれを別の言語の土壌でもう一度甦らせるという、もともと不可能に近い作業にほかならない。しかし、ドストエフスキー本人にも対抗できるような個性を持った稀有(けう)のカリスマ的ロシア文学者、亀山郁夫はその離れ業を可能にしてしまった。これは確かに信じがたい事件である。(亀山郁夫・訳)

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