(新潮社・2520円)
◇不意打ちする「傷口」として
この三十年ほど、西欧を中心にして、フィクション論の研究が活況を呈している。そこでは、フィクションとは何か、フィクションの存在様態はどのようなものか、といった問いが、文学理論のみならず分析哲学や可能世界論の枠組みで論じられる。しかし、そうした理論的著作を一度でも読んでみたことがある者なら、そこではフィクションがフィクションとして扱われていないという不満を感じずにはいられないはずだ。
『「赤」の誘惑--フィクション論序説』と題された本書の著者である蓮實重彦は、そうした西欧のフィクション論の現状に対していらだちを隠さない。そして、フィクションの本質を考えるときに契機となるはずのフィクション論を、美学者であり小説の実作者でもある三浦俊彦をほとんど唯一の例外として、まったく顧みない我が国の現状に対してもいらだちをおぼえている。そのいらだちに触発されて書かれた『「赤」の誘惑』は、既存のフィクション論に対してフィクションとともにあろうとする立場から異議申し立てを行いつつ、「フィクションにふさわしくフィクションを語る」実践をこころみた、類例のない批評書である。
ここで「フィクションにふさわしくフィクションを語る」ために著者が召喚するのは、タイトルにある「赤」だ。理論家が持ち出す例文には、なぜか「赤頭巾」や「赤い靴」や「赤い球」といったふうに、「赤」が氾濫(はんらん)している。しかし当の理論家たちには、その事実に自覚的な様子がいっさいない。そこで著者は、あえて「『赤』の誘惑」に身をゆだねようとする。
ただし、著者がこころみようとしているのは、ありきたりな「赤」のシンボリズムの網羅的な分析というようなものではもちろんない。著者が言うように、「『フィクション』を論じるにあたり、『赤』への言及を正当化する理由など、いっさい存在していない」のであり、それはたまたま「赤」の氾濫が目にとまったという偶然の産物にすぎない。しかし、偶然がいつのまにか必然に思えてくるような瞬間に、著者はまどろんでいるフィクションが目覚めるさまを目撃しようとする。
こうして本書は、全体としてみれば主に理論的な言説という一貫した白い表面でおおわれながら、そのあちこちに点々と赤が脈絡もなくちりばめられているという相貌(そうぼう)をまとうことになる。なかでもとりわけ印象的な「赤」が出てくるのは、森鴎外の『かのように』を論じたくだりである。フィクション論に直結するハンス・ファイヒンガーの著作『「かのように」の哲学』への言及を含むこの作品について、蓮實重彦は作者鴎外の意図を越えてフィクション論的な考察を行いつつ、その一方で作品の冒頭に登場する「火を点(とも)す女」としての小間使いに注目し、彼女が暗闇の中で点滅する葉巻の「赤」にはっとする場面を取り上げてみせる。ここで『「赤」の誘惑』の読者は、まさしくその小間使いのように、著者がさりげなくさしだす「赤」に不意打ちされるのである。
西欧文学論として名著の誉れ高いアウエルバッハの『ミメーシス』を論じた章「編みものをする女」でもそうだが、蓮實重彦の書物は女が出てくるとにわかに精彩を放つ。それはまるで批評書ではなくフィクションを読んでいるような体験だと言ってもかまわない。そしてそのとき、読者の目の前で、本書に点在する「赤」は生々しい傷口、「フィクションという尋常ならざるものへの不気味な開孔部」になり、禍々(まがまが)しい緋(ひ)文字、真っ赤な嘘に変貌する。
毎日新聞 2007年5月13日 東京朝刊http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2007/05/20070513ddm015070012000c.html