(朝日新聞社・1890円)

 ◇渦巻くように動き、重奏する響き

 すべての「小説」は「罪と罰」と名付けられうる。今、われわれは胸を張ってそう呼べる最良の小説のひとつを前にしている。

 渦巻きに吸い込まれそうな小説である。渦巻きの中心に殺人がある。

 脊振(せふり)山地を南北に貫く国道263号線の県境の山中にある三瀬(みつせ)峠。佐賀と長崎と福岡を結ぶ道路がここで交わる。峠道は鬱蒼(うっそう)とした樹々におおわれている。トンネルがある。

 二〇〇二年一月六日、九州北部で珍しく積雪のあった日、長崎の若い土木作業員が、福岡に暮らす若い女性保険外交員を絞殺し、この三瀬峠に遺棄したとして長崎県警に逮捕された。

 ……とこのように語り出された物語の鳥瞰(ちょうかん)的視点は、JR久留米駅近くの理髪店、被害者の実家の内部へと一気に急降下する。いましも、福岡の保険会社の寄宿舎にいる佳乃(よしの)が母親に電話を掛けてきたところで、屈託ない長話になる。数時間後に彼女は殺される。

 この殺人には二人の男が絡んでいる。大学生の男が彼女をクルマで三瀬峠まで乗せ、首を絞め、ドアの外へ蹴り出し、そのあと土木作業員が……。

 二人の男は見知らぬ同士で、被害者だけが二人を知っている。いったい何があったのか。

 警察の捜査を中心に、被害者と二人の男に関わりのある人々が、作者のストーリィ・テリングの才腕によって闇の中から次々と呼び出され、息せき切って、渦巻くように動き出す。日常(リアル)をそのまま一挙に悲劇(ドラマ)へと昇華せしめる。吉田修一が追い求めてきた技法と主題(内容)の一致という至難の業がここに完璧に実現した。

 主題(内容)とは、惹(ひ)かれあい、憎みあう男と女の姿であり、過去と未来を思いわずらう現在の生活であり、技法とはそれをみつめる視点のことである。視点は主題に応じてさまざまに自在に移動する。鳥瞰からそれぞれの人物の肩の上に止まるかと思うと、するりと人物の心の中に滑り込む。この移動が、また主題をいや増しに豊かにして、多声楽的(ポリフォニック)な響きを奏でる。無駄な文章は一行とてない。あの長大な『罪と罰』にそれがないように。

 祐一はまるで逃げるように病院を出て行った。駐車場へ向かう祐一の姿が、月明かりに照らされていた。すぐそこにある駐車場へ向かっているはずなのに、美保の目には、彼がもっと遠くへ向かっているように見えた。夜の先に、また別の夜があるのだとすれば、彼は丶そこ(傍点評者)へ向かっているようだった。

 丶そこに待っているのは、すべての視点をひとつに束ね、引き受ける作者のそれである。殺人者祐一はラストで、作者の終末からの視点、哀しみと慈しみにみちたまなざしの中へと迎えられ、消えてゆく。

 祐一の不気味さが全篇に際立って、怪物的と映るのは、われわれだけが佳乃を殺した男だと知っているからだが、もし殺人を犯さなければ、彼はただの貧しく無知で無作法な青年にすぎなかった。犯行後、怪物的人間へと激しく変貌してゆく、そのさまを描く筆力はめざましい。それは、作者が終末の哀しさを湛(たた)えた視点、つまり神の視点を獲得したからだ。それもこの物語を書くことを通して。技法と内容の完璧な一致といったのはこのことだ。

 最後に、犯人の、フランケンシュタイン的美しく切ない恋物語が用意されている。悔悛(かいしゅん)のはてから絞り出される祐一の偽告白は、センナヤ広場で大地に接吻するラスコーリニコフの行為に匹敵するほどの崇高さだ。

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