(国書刊行会・2520円)

 ◇愚かな人間の姿を冷静に描く

 アイルランド生まれの作家ウィリアム・トレヴァーの名前は、日本ではそれほど知られているわけではない。しかし、創作歴ほぼ五十年の長きにわたって多数の長篇や短篇をコンスタントに書きつづけ、驚くほどの高水準を維持しているこの作家を知らないとしたら、それは不幸なことだ。今回独自に編まれた短篇選集である『聖母の贈り物』は、トレヴァーの本格的な紹介として近年の快事である。ぜひこの機会にトレヴァーの短篇を賞味してほしい。トレヴァーこそは現役作家の中で世界最高の短篇作家だというのが、評者の長年の確信なのだから。

 トレヴァーの短篇の本領は、徹底して甘さを排した語り口にある。そこでは、孤独感や愚劣さや弱みを抱えた人間の姿が、冷静な筆致で描き出される。ときには、その物語がグロテスクなブラック・ユーモアに接近することもある。たとえば、独り暮らしをしている八十七歳の老婦人の家に、四人の若者たちがやってきて、キッチンを黄色いペンキで塗りたくってしまう「こわれた家庭」や、パブリック・スクール在学時代にいじめ仲間だった三人組が、社会人になって世間的に出世した後、思わぬ形で手痛い復讐(ふくしゅう)に遭う「トリッジ」といった短篇になると、ホラー小説を読んでいるのではないかと錯覚するくらい怖い。こうした作品では、登場人物たちが恐ろしい体験で金縛りになってしまうように、読者も本のページに釘付けになってしまう。作者のトレヴァーは、彼が描く人物たちを把握するその強いグリップで、わたしたち読者までつかんで離さない。

 収録されている短篇の中で、最も分量的にも内容的にも長篇小説を読んだような手応えがある力作「マティルダのイングランド」をべつにすれば、わたしがこの選集『聖母の贈り物』でいちばん好きな作品は、どこにでもありそうな不倫の顛末(てんまつ)を描いた「イエスタデイの恋人たち」である。舞台設定は六〇年代のロンドン。男は旅行代理店に勤務する、口ひげをはやした妻帯者で、相手は近くの薬局に勤める一まわり年下の女性だ。男は欲望の対象として眺めていた女に、ふとしたきっかけで近づき、短い時間の逢瀬(おうせ)を重ねる。そしてあるとき、たまたま目にした豪華なホテルの誰も使っていないバスルームにこっそり忍び込み、そこを逢い引きの場所に選ぶ。二人の不倫はそうして三年ほどずるずると続き、あるとき思い切って家を飛び出し新生活を始めてみたものの、金銭的な理由から長続きはせず、ついに破局を迎え、男は強欲な妻のもとにすごすごと戻ることになる。六〇年代も過ぎて、男は通勤中の地下鉄の座席で目を閉じ、大理石造りの大きなバスタブの中ですごした女との夢のような時間を懐かしく回想する。その耳には、六〇年代の名残りとも言うべき、ビートルズの「シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドウ」が聞こえてくる……。

 ここでトレヴァーは、ノスタルジアに浸っているわけではけっしてない。バスタブにどっぷりつかるようにノスタルジアに浸っているのはその男であり、トレヴァーは彼の虚(うつ)ろな内面を、先行きの見通しもなく不倫を犯し、しかもその不幸な結果になんの呵責(かしゃく)も感じず、甘い思い出に浸るだらしない姿を、的確に描き出しているだけなのだ。しかし、トレヴァーはその男をきびしく断罪してはいない。彼はただ、愚かな人間の姿をじっと冷静に観察しているのであり、その視線を冷酷だと取るか、やさしいと取るかどうかは、読者の感性いかんにかかっているはずだ。(栩木伸明・訳)


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