◇明快な構造分析、あざやかな劇評
かつての芝居好きならだれでも一度はラシーヌにはまった(むろん今日の芝居好きはそうではないかもしれない)。ラシーヌが芝居の魅力の核心をもっているから。ラシーヌを読み、あるいは見た人間は直感的にそれを感じる。感じるけれどもその正体はわからない。
その正体をロラン・バルトが実に明快に分析している。
彼によればラシーヌ悲劇には三つの空間がある。一つは舞台の背後の「奥の間」。もう一つは、「控えの間」すなわち私たち観客がいま目にしている舞台。そして最後の一つは「外界」である。
奥の間には権力者がいて、登場人物の全ての運命をその手に握っている。そこには神が、王が、父がいる。控えの間にはその権力に操られる人間たち。そして外界には死、事件、逃走が待っている。三つの空間は壁一重である。
控えの間は密室であり、登場人物たちはこの密室に幽閉される。
なぜそんな密室が必要なのか。
ここには言葉だけしかない。この言葉は単に過去の事件を語るのではなく幻惑を生む。そしてその幻惑によって、今を生きる。生きることによって自分の身体を獲得する。たとえばフェードルは、夫を語って義理の息子イポリットのなかに夫の面影を見、そしてイポリットの身体を見て不倫の恋に落ちる。そうして彼女は自己を喪失する。動揺がおき、そのために彼女の身体は崩壊する。逆説的にいえばラシーヌの身体はこの崩壊のために存在し、ここにフェードルの恋のエロスがある。
彼女は、この権力の支配する密室の中で、情況の関係の変化によって女としての性を獲得するのだ。
この分析によって、ラシーヌが私たちを引きつけるものの正体があきらかになる。権力との関係から生まれるエロス。ラシーヌのあの古典的な長ぜりふのなかにひそんでいるものは、人間の心理や性格や個性といったものではなく、一つの磁場で権力との関係によっておこる言葉と身体の関係なのである。この構造こそラシーヌの、いや芝居の持つエロスの正体である。
この本は三部にわかれる。第一部「ラシーヌ的人間」は総論「構造」と各論「作品」にわかれている。第二部はマリア・カザレスとアラン・キュニーの「フェードル」の劇評、第三部が演劇史。
むろんロラン・バルトだから難解な面もある(ことに「構造」後半と第三部)。しかし難解だからといってこの本を捨てることは出来ない。演劇について、ラシーヌについて、あまりに重要なことが書かれているからである。ことに「構造」の前半はすでにふれたように明快な分析でラシーヌばかりでなく芝居の本質にふれて思わず読者を頷(うなず)かせる。貴重な文献。少なくとも私は今更ながら芝居とはかくの如きものであったかと思わざるを得なかった。
第二部の劇評は、劇評家としてのバルトの面目躍如たるものがある。マリア・カザレスとアラン・キュニーの芝居手に取る如く、劇評はこうでなければならないと思わせる。
その他にこの本には、翻訳者渡辺守章の、全体の三分の一位の膨大な「解題」がついている。これが面白い。
フランス留学中だった渡辺守章は、この「フェードル」を実際に見た。バルトも批判しているカザレスのフェードルの涙を流しての熱演に客席は笑うオバサンたちで一杯。さすがの渡辺守章も隣席のオバサンの肩をつついたりする。この挿話からはじまってバルトの業績があざやかになる。名解題。
この解題と合わせて読むと(それでも難解な部分もあるが)、ラシーヌが、バルトがなにを考えたかさらに明確である。(渡辺守章・訳)
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