(新潮社・1365円)

 ◇漢字仮名まじり文のエロス

 小川洋子の小説にはどこか無国籍なところがある。批判しているわけではまったくない。ときには無国籍性どころか無歴史性をさえ感じさせるのであって、それが素晴らしい魅力になっているのである。あるいは地球市民性と言ってもいい。宮崎駿のアニメと同じだ。国語、国籍へのこだわりは近代になって生じたにすぎない。いまや全世界が無国籍化しているのである。とすれば、小川洋子は、近代以後、それこそポスト産業社会の申し子ということになるだろう。村上春樹と並んで世界に受容されはじめている理由だ。

 しかも興味深いのは、だからこそ逆に、国語の魅力、日本語の魅力がきわだって見えるということである。短篇集『海』はそういうことを強く感じさせる。

 たとえば冒頭の「海」。結婚の承諾を得るため相手の女性とともにその実家をはるばる訪ねる物語だ。歓待されるが家族が話し下手で気疲れしてしまう。語り手は、女性の十歳年下の「小さな弟」(とはいえ体は語り手より一回り大きい)の部屋で弟とともに床に就くが、寝る前に動物番組のビデオを見せられる。それは「動物の死に真似(まね)」特集で、オポッサムの見事な死に真似が映し出される。生の最中に演じられる死だ。

 弟が楽器を演奏すると聞いた語り手はどんな楽器かと尋ねる。

 「メイリンキンです」

 ザトウクジラの浮袋でできた楽器で、ラグビーボールより少し大きい。浮袋の表面に魚の鱗がびっしり張りつけてあって、中に飛び魚の胸びれで作った弦があるのだという。語り手は「鳴鱗琴」と書くのだと気づく。そんな楽器の演奏者に会ったのは初めてだと言うと、弟は「僕が発明者で、唯一の演奏者」だと答える。聴きたいと言うと、海からの風が届かないと鳴らないと答える。それでも弟は、頬を膨らませ、唇をすぼめて、口笛とも歌声とも違う音を真似てみせる。短篇は、弟が寝入った後に、語り手が楽器の箱をそっと持ってみる場面で終わる。

 メイリンキンという片仮名が鳴鱗琴という漢字に転換した瞬間、音が意味に変わる。死が生に変わる。漢字仮名まじり文でなければできない芸当だ。したがってきわめて日本的に思えるがそうではない。漢字と仮名のこの魔術に気づくには一度は日本語から離れなければならなかったはずだからだ。ここには外国人の、地球市民の視線が潜んでいる。

 「バタフライ和文タイプ事務所」で同じ主題がさらに深められる。和文タイプという以上、舞台は日本だが、およそそういう感じがしない。医学部の大学院生の論文を打つ仕事が主で、五台のタイプライターが忙しく稼動しているがひっそりと静かだ。カフカやボルヘスの世界に近い。

 魅力は漢字のエロスにある。糜爛(びらん)の「糜」の字が欠けたために、語り手は三階の倉庫へ行き窓口の奥の従業員から新しい活字を受け取る。次に睾丸(こうがん)の「睾」の字が欠ける。窓口の奥に興味をもった語り手はわざと「膣(ちつ)」の字を傷つけ取り替えに行く。文章のなかで活字が妖(あや)しく息づくさまが描かれる。

 ここでは漢字が文学の秘密そのものなのだ。驚嘆するほかないが、重要なのはそれがその無国籍性によって初めて可能になったと思われることだ。

 最後の短篇「ガイド」もいい。遊覧船やタクシーが出てくるから舞台は現代だが、昔々あるところで、という趣。ガイドの母の手助けをする小学生が老人の旅行者に出会う。かつて詩人、いまは題名屋。人の思い出に題名を付ける仕事だという。「詩など必要としない人は大勢いるが、思い出を持たない人間はいない」という老人の一言が鮮明な記憶として残る。

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