◇ドライなユーモアの職人芸ミステリ
<結婚して三か月、そろそろ、妻を殺す頃合(ころあい)だ。>
短篇ミステリの職人ジャック・リッチーの、わが国では二冊めに当たる作品集『10ドルだって大金だ』の冒頭に置かれた「妻を殺さば」という短篇は、こんな書き出しで始まる。この文章の呼吸が、ジャック・リッチーの持ち味なのだ。
ジャック・リッチーは、一九五〇年代の後半から、《アルフレッド・ヒッチコック・ミステリ・マガジン》という雑誌を中心にして、短篇ミステリを書きはじめた。三十年ほどの創作歴で発表数は三百篇以上にもなるが、彼が生きているうちに出た短篇集はわずか一冊しかなかった。
わが国でも、同誌の日本版が出ていたこともあって、翻訳された短篇は百篇以上あるのに、とりたてて話題になることもなかった。それが最近、わが国で独自に編まれた作品集『クライム・マシン』がミステリ愛読者のあいだで評判になり、にわかに再評価の気運が盛り上がっている。それはどうしてだろうか。
当時、ジャック・リッチーと同じように、あちこちのミステリ誌に短篇を売っていたライターは数多い。ところが、彼の作品がいまなお読むにたえるのは、他のライターたちとは歴然と異なる、独特な声を持っているからだ。
『10ドルだって大金だ』には、滑稽味の濃厚な作品もいくつか収められているが、典型的なジャック・リッチーの短篇では、静かな世界を好む男性が語り手となる。そして、そういう男の世界を理解しない妻が、しばしば殺人の被害者となる。言葉が極端にそぎ落とされた簡潔な文体で、主に会話で物語が進行する。ミステリというジャンルのつねで、語られずに暗示されるだけの事柄も多いが、それを読者が読み落とすことはめったにない。だからどんな読者にも楽しめる。
いわばミニマリズムの文体で、男の静かな狂気が描かれた世界--と言えば、ヘミングウェイやカーヴァーを連想してしまうかもしれない。実際、アメリカ文学の範囲で考えると、ジャック・リッチーの短篇にいちばん近いのは、ヘミングウェイの「清潔な明るい場所」や、カーヴァーの「頼むから静かにしてくれ」といった有名な短篇である。だからその意味では、ジャック・リッチーの小説世界はアメリカ小説のひとつの流れに確実につながっている。
もちろん、そんなふうに持ち上げられるのは、ジャック・リッチーの本意ではないだろう。彼はあくまでも職業的な娯楽小説家であり、ヘミングウェイやカーヴァーみたいに、底知れない虚無や絶望をのぞきこんでしまうような複雑なキャラクターは作らない。その代わりに彼が武器とするのは、徹底してドライなユーモアであり、無表情なキャラクターのおもしろさである。たとえ殺人が起ころうと、死体がどこかに隠されようと、血なまぐささがいっさいない。それはほとんど爽快なまでの、すっとぼけた楽しい殺人なのである。いったんこの味をおぼえると、読者は間違いなくジャック・リッチーという短篇職人の愛読者になってしまう。
わたしはときどき、現実のジャック・リッチーはどんな人間だったのか、想像してみたくなることがある。リッチー作品の多くの語り手たちと同様に、自分だけの小さな世界を大切にしながら、どこかで人生に対して諦観を抱いていた人だったのだろうか。もしかすると、彼の愛読者が今になって増えてきたのは、時代がようやくジャック・リッチーに追いついてきた証拠なのかもしれない。(藤村裕美、他・訳)
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