(白水社・2310円)

 ◇文学体験を切実に問う感動の書

 『テヘランでロリータを読む』。挑発的なタイトルだ。ホメイニー師が指揮するイラン革命によって、イスラム原理主義に支配されたテヘランで、背徳的な小説として知られるナボコフの『ロリータ』を読むことがどういう意味を持つのか。そう本書は問いかける。

 著者のアーザル・ナフィーシーは、父親が元テヘラン市長という恵まれた家庭に育った。十三歳のときから海外留学してアメリカの大学で学び、故郷の大学の教壇に立つべく革命直後に帰国してみると、テヘラン空港で彼女を待ち受けていたのはホメイニー師の巨大なポスターと、「アメリカに死を!」というスローガンだった。このときから彼女は、故国に暮らしながらも精神的な亡命者として生きることを余儀なくされる。政府当局による大学閉鎖。大勢の学生たちの投獄、殺害。ヴェール着用の強制という形での、女性に対する弾圧。イラン・イラク戦争。こうした嵐のような時代を経験し、現実と小説の中をたえず行きつ戻りつしてきた著者は、ついに故国をふたたび離れる決心をする。その痛みに満ちた記録が本書である。

 著者にとって、文学作品はけっして現実から逃避し、慰めを得るためだけのものではない。むしろそれは、現実に突きつける鏡として機能する。たとえば、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』がアメリカ的なものの典型であり、このような不道徳な作品を読むことはイランの革命的な若者にとって有害だ、と主張する学生に対して、著者は授業で『グレート・ギャツビー』を裁判にかけてみようと提案し、自らは被告となる書物そのものの役を演じて、文学を擁護する熱弁をふるう。「いい小説とは人間の複雑さを明らかにし、すべての作中人物が発言できる自由をつくりだすものです。この点で小説は民主的であるといえます……。多くの優れた小説と同じように、『ギャツビー』の核心にも共感があります--他者の問題や苦痛に気づかないことこそが最大の罪なのです」

 この他者の心を理解する能力の欠如という悪こそ、ここで取り上げているさまざまな文学作品に、とりわけナボコフの『ロリータ』に登場する、ニンフェット愛という病に取り憑(つ)かれて、他者のみならず自己をも破滅に導いてしまう怪物的なハンバートに、著者が見出すものだ。彼女は最後の大学を辞めてから、これまでの教え子たちのなかで文学を愛する熱心な女子学生七人を選び、週に一度自宅に招いて『ロリータ』の読書会を開いた。すると彼女たちは全員一致して、ハンバートに人生を収奪された少女ロリータに圧倒的な共感を示したという。全体主義的な物の見方につねに反対を表明していた、亡命作家ナボコフの『ロリータ』が、革命後のイランに生きるこの女性たちにとって最も身近な小説として読まれたことに、わたしは感動を覚えざるをえない。

 「小説は寓意ではありません」と著者は教壇から学生たちに向かって呼びかける。「それはもうひとつの世界の官能的な体験なのです。その世界に入りこまなければ、登場人物とともに固唾(かたず)をのんで、彼らの運命に巻きこまれなければ、感情移入はできません。感情移入こそが小説の本質なのです。小説を読むということは、その体験を深く吸いこむことです。さあ息を吸って」

 わたしはこの『テヘランでロリータを読む』を、まるで小説を読むように読んだ。著者をはじめとする、イランに生きる女性たちの悲痛な運命に巻きこまれ、それを固唾をのんで見守った。小説を愛するすべての人におすすめしたい、近来の名著だ。(市川恵里・訳)


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