(文藝春秋・1050円)
◇人間は自分の欲望を知らない
芥川賞受賞作。デッサン力が抜群にすぐれている。無駄な線がほとんどない。
「黙々と仕事を続ける水城さんに見入っていた。段ボールケースに腕を突っ込み、缶コーヒーを取りだしている。腕を折り曲げたまますくい上げると、肘(ひじ)の内側に缶が積み上がった。百九十ミリリットル缶、通称イチキュウ缶だ。彼女は、缶のピラミッドが力こぶで乱れるのを微調整しながら、腕を固めてそのまま運んだ。開いた自動販売機の商品投入口にそろそろと近づけた。」
冒頭の一節。主人公はこの水城さんと組んで仕事をしているアルバイトの青年、敦。自動販売機の管理と商品補給だが、街でよく見かけるこの仕事がかなりの熟練を要することが分かる。それだけではない。見入っている敦が、水城さんというこの年上の女性に敬意を覚えていることも分かる。
物語は、八月最後の暑い一日、水城さんと敦が、「中野から大久保、新大久保、ついで新宿方面へと抜ける」日本でいちばん自動販売機が乱立している地帯に商品を補充してゆくさまを描くかたちで進行してゆく。水城さんは子持ちで離婚しているために、車を運転し商品を補充する厳しい仕事をこなしているわけだが、この日でトラックを降り内勤に転じることになっている。敦はその助手。
「ところであんた、いつ離婚するの」という水城さんの言葉から、物語にもうひとつの時間が流れることになる。敦と知恵子が過ごした四年という時間である。厳しい仕事を選んだ理由を水城さんにうっかり尋ねてしまい、離婚の事実を語られて、それが負い目になって、敦のほうも知恵子との経緯をかなり詳しく話してしまっていたのだ。
こうして、大学時代に「映画の脚本家を目指していた敦」が、「雑誌編集者になりたがっていた知恵子」に惚れ、同棲し、結婚し、破綻してゆく様子が、自動販売機に商品を補充してゆく仕事の合間を縫うように、回想される。敦は明日、離婚届を出す予定なのだ。
思いやりが裏目に出て逆に距離を広げてゆくどこにでもありそうな若い夫婦の関係。とはいえ、マンション販売代理店勤務から、食品関係企業の出版部門の編集者になり、職場の人間関係につまずいて辞めた知恵子の病的な姿は、点描にもかかわらず生々しい。
とりわけ巧みなのは飲み食いする場面の描写だ。知恵子の邪推をかわすために、大学時代の映画サークルの仲間を自宅のアパートに集めて飲むことになったために、かえって二人の関係が決定的に悪化する経緯など、痛々しいほどだ。
物語も末尾近く、水城さんがこの日でトラックを降りるのは、じつは再婚が決まったからであることが明らかになる。
焦点の鮮明な文章は志賀直哉を思わせる。写実力がすぐれているからではない。人間は自分の欲望を知らないという事実をはっきりと告げているからだ。知恵子は自分の欲望を知らない。別な女と付き合うようになった敦も、自分の欲望を知らない。食事の描写は哀しいほど切実にこの事実を浮き彫りにする。
再婚することになった水城さんは例外に思える。自分の欲望が他人の欲望であることを知っているように思える。だが、それもほんとうは疑わしい。仕事を終えてから家族ともども再婚相手と会食するらしいが、そこで何が起こるかは分からない。
敦は最後に「何もかも本気だったのだ」と思うが、自身の欲望を確かめようとするその意固地さにおいて本気だったのだ。
併載された短篇「貝からみる風景」も同じ主題を展開している。今後が期待される。
毎日新聞 2006年9月24日 東京朝刊
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2006/09/20060924ddm015070128000c.html