◇『感覚の幽(くら)い風景』 

 (紀伊國屋書店・1785円)


 ◇軽やかに考える思想家の厳しい心


 哲学について書く人は多い。だが、哲学を書く人はめったにいない。鷲田清一さんは、それができる希有の一人なのである。


 昔、哲学は現実の背後をのぞきこむ仕事であった。現実は疑わしいものであって、真の実在はその奥に隠されていると考えてきた。現象学という方法が生まれて以来、その考え方が逆転された。真に確実なのは現実の手前にあって、まだ実在するともしないともいえない「現象」だという。

 人が「あるものは実在しない」と言うためにも、まずその「あるもの」を思い浮かべなければならない。それは存在を疑うためにも必要なものだから、考える人間はこの意識のなかの現象を疑うことはできない。現象学はこれを精密に見つめることから始めて、それを材料にして、いわゆる外なる現実を構成しようと考えるのである。


 ただしこれは哲学だから、見つめるといっても簡単ではない。繊細に意識を観察しながら、そこから偶然的な要素を除いて、普遍的な側面だけを捉(とら)えるよう努めなければならない。現象学には、詩人の心と抽象的な思考の両方が要るのだが、鷲田さんはこの本でその両立を見せてくれた。


 「ほころび」「まさぐり」「うつろい」など、各章の題が示すように、文章には和語が巧みに駆使されている。漢語もカタカナ語も避けられていないが、哲学の専門術語はみごとに排除されている。先考の業績を踏まえ、引用もしながら、あくまで自分と一般読者の言葉で考えようという姿勢が尊い。


 一言でいえばこれは身体の哲学だが、とくに動く身体、働く身体、したがって他者とともに社会に生きる身体の哲学である。考察はまさぐり、揺れる身体に始まり、社会的な皮膚であるファッションにも広がってゆく。


 著者によれば、自分の身体とは、皮膚に包まれた肉の塊ではない。現に身体の大部分は自分の目には見えず、外から見る他人の目によって存在させられている。自分にとっての自分の身体とは、外界の表情にたいして身構えること、立ち向かったり、屈(かが)みこんだりする、その構えの感覚なのである。


 また昔の哲学者は、感覚とは認識の素材にすぎず、高次の自己がそれを統合して認識をつくるものだ、と考えていた。だが鷲田さんは、たとえば視覚が対象の触感をも捉える事実を指摘して、感覚そのものに統合作用があると主張する。身体はそれ自体が主観の一部であり、自己の発端であり、世界をさし示す存在である。


 そのくせ身体は昔の誇り高い自己とは違って、他人の視線に依存してようやく「ある」といえる存在である。最初の孤独な自己は母親が自分から目をそらし、無視されることの痛みを初めて自覚したときに発生する。


 「わたし」はあなたにとっての「あなた」であり、「あなた」はあなたにとっての「わたし」である。自分は自分の身体と内側で直接にはつながっておらず、他人に見られ他人を見ることを媒介に、想像のうえで織りあげたイメージがわたしであるにすぎない。


 そして人間は見られることの不安から衣装を着るから、身体の現実の外殻はファッションだといえる。人は誰もファッションから逃れられず、モードへの反逆がそのままモードになるという逆説を避けられない。しかもモードの宿命はただ変わることにあって、目的もなく人類を運び去ってゆく。


 感覚は微妙で言葉になりがたいだけではなく、その切実な部分はつねに意識の周縁にある。捕食、排泄、生殖、病苦と死など、感覚が裸で疼(うず)く場面は直視されない傾向が強い。しかも近代は技術と制度を尽くして、これらを日常の生活から完全に隠してしまった。


 だがそのことは人間関係をもただ合理的に考え、他人を功利的な価値でのみ判断する通弊につながっていないか。他人からの「いやし」は強く求めながら、他人を「想う」ことの少ない今日の若者を生んではいないか。


 この本の内容は広範にわたり、体系をめざすことなく厳密な意味でのエッセイ集として書かれている。正確な紹介の難しいゆえんだが、それだけに読者を哲学することの現場にたちあわせてくれる。おかげで私のような読者は、多くの自問自答をさせてもらった。


 たとえばここで感覚として一括されたものは、従来の哲学で「感情」や「気分」などと、さまざまに分類されていたものとどう対応しているのだろうか。とりわけ感覚が論理的な言葉の届かない「幽い風景」だとしても、人類が数百年の時をかけてそれを明確に見届けようと努め、そのために形や音やリズムを使ってきた歴史をどう評価したらよいのか。


 それにしても読み終わった最大の感想は、この思索家の心の厳しさである。これまで鷲田さんといえば、軽やかにファッションを語り、苦しむ他人に寄り添うことを勧める優しい思想家だった。だがじつはその背後には、モードの残酷な無常を直視し、自己を「ひとつの損傷」として、母親から「取り残された」存在として感じるもう一人の鷲田さんがいたのである。

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