◇池内紀(おさむ)・評

 (新潮社・1470円)

 ◇道具ではなく「人格」としての言葉

 私自身、かなりの量の翻訳をしている。だから自信をもっていえるのだが、文学の世界で、とりわけ翻訳の難しい作品が二つある。一つはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』である。もう一つは同じくジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』である。アイルランド生まれのこの作家は、翻訳者に地獄の苦しみをなめさせるために生まれてきたような人なのだ。

 『ユリシーズ』は厄介きわまるが、翻訳できないこともない。たいへんな苦労がいるが、苦労がむくわれるたちの小説で、パロディ仕立てであれば訳注という逃げ道もある。実際、既訳がいくつかあり、どっさり訳注がついている。

 『フィネガンズ・ウェイク』、これはとても訳せない。翻訳不可能である。そのはずだ。いちおう物語ということになっているが、全篇これ言葉遊び、英語というよりも「ジョイス語」でつづられており、夢の中のたわごとにも似てピリオドもなく、三行読むと頭がオカシくなる。一ページすらとても読み通せない。

 柳瀬尚紀はこの『フィネガンズ・ウェイク』を訳している。きちんと日本語の夢の中のたわごとにして、ピリオドのない文章を、まさにピリオドのないぐあいに訳しとおし、しかも三行きりではなく全部を訳した。それは文庫版になり、大江健三郎が序文をつけている。翻訳の世界では、まさにノーベル文学賞ほどの偉業であるからだ。

 ジョイス語の特徴は一語に、一行に、フレーズに、センテンスに、さまざまな仕掛けがしてあることだ。意味掛け、音の連想、かかり結び、ときには語源にもとづく一語の歴史がそっくり凝縮されている。訳者はそれに応じた日本語を求め、途方にくれる。立ち往生して、泣くにもなけない。天を恨みたくなる。

 ふつうは深いため息とともにあきらめるのだが、柳瀬尚紀はあきらめなかった。訳注という逃げ道もとらなかった。強い味方がいたからである。日本語そのものが助けてくれた。『日本語は天才である』が二つとないユニークな日本語論なのは、ここでは言葉が道具としてではなく、一つの確固とした人格として語られているからだ。しかも情理にあつく、酸いも甘いもこころえていて、途方にくれた翻訳者をいそいそと助けてくれる。ときにはさんざっぱら七転八倒させたあとで、何くわぬ顔であらわれる。

 「ほんとうにすごい翻訳だと思いました。ぼくの翻訳がすごいのではありません。日本語がやってくれた翻訳が、すごいのです。ひょっとして天才じゃなかろうかと思いました。ぼくが、ではありませんよ。日本語が、です」

 高校生にも、なろうことなら中学生にもわかるように書いたという。だからとりたてて何でもないことのように述べてあるが、日本語をこんなふうに見て、こんなぐあいに言えるのは、とてつもない七転八倒のあげくのことなのだ。いかなる辞書や辞典でもなく、日本語そのものに救われた人の思いである。

 例がたのしい。日本語の敬語では誰もがまちがいをやらかすが、「お」の変幻自在を扱った章を読むと、まちがいをすることがうれしくなる。

 日本語はまたルビといって漢字の横にふりがなをつけたりするが、およそ世界に例のない言語的特性であることに、あらためて気がつくだろう。柳瀬尚紀はむろん、ルビをふんだんに活用した。「漢字(かんじ)の富(とみ)を呼(よ)び出(だ)し、自在(じざい)に活(い)かすためにはなくてはならない武器(ぶき)」であるからだ。

 『フィネガンズ・ウェイク』の作者ジョイスが英語の辺境アイルランド生まれであったように、その訳者の柳瀬尚紀が「日本国最東端の根室」出身なのは偶然ではないだろう。大学に入ったころ、自分が「確実に知っていた日本語」をアイウエオ順に書き出している。

 「あいてくさい」「あずましい」「あったら」「あめる」「いずい」……。おしまいは「やばちい」「ゆるくない」。

 はじめはむろん「なんもわかんないべさ。なんもだ。ガスん中やばちいやちけっぱって歩くみたいなもんだ」。辺境生まれの特権である。母国語そのものが異国語に見え、独自の方法で修得できる。日常のなかでも、たえず生得の根室弁と修得語との二重の日本語を意識している。とてつもない文学的通訳の生まれる土壌というものだ。

 おそろしく高度な日本語論を、高校生、中学生にもわかるように書いたのは、その年ごろがもっとも高度な日本語に敏感な時期であるせいだろう。オトナになるにつれ人は世間知と引き換えに、言葉の知恵を失っていく。だからこそ『日本語は天才である』のしめくくり、いろは歌の柳瀬版をあげておこう。

 「……知恵(ちゑ)の灯守(ひまも)り居(ゐ) 雪越(ゆきこ)え世間(せけん)へ 彩(あや)なす読(よ)み使(つか)ふわね」

 最後にわざと舌をもつらせるなど、こころにくい人物である。

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