◇『二十世紀フランス小説』=ドミニク・ラバテ著

 (白水社・文庫クセジュ・1103円)

◇『ヨーロッパは書く』=ウルズラ・ケラー、イルマ・ラクーザ編

 (鳥影社・3045円)

 ◇主体の問い直しと回帰、そして多様性

 『二十世紀フランス小説』か……その二十世紀のちょうど半ばに生まれた私などは、一五〇頁(ページ)ほどにまとめられたこの本を手にして、まずは意気消沈してしまう。世紀が変わってしまったのだ、ああ。

 そう溜(た)め息をついたあとで、しかしながら、好奇心が頭をもたげて来る。学生時代に、つまり、一九六〇年代の半ばから七〇年代にかけて翻訳で読んでいたフランスの小説は、文学史的にはどんな位置づけになっているのか気になり始めたからだ。

 スタンダールは大抵読んだ。ジッドも読んだ。フロベールとプルーストは読まず嫌い。サガンの『悲しみよこんにちは』はタイトルそのものが嫌で、手にもとらなかった。あの長大な『チボー家の人々』は我慢して読みはしたものの、どこで感動すればいいのか分からなかった。書店の棚にずらりと並んでいるサルトルは自動的に回避。マルローは『王道』も『人間の条件』も面白かった。紹介の始まったヌーヴォー・ロマンの作品は、読み出してはみたものの、何が面白いのか分からない。そもそも翻訳の日本語なるものが、自分がふだん読み書きしているものとはひどく違う。フランスの小説家というのは超人的に頭がいいのかなあ、という、他人には言えない感想を抱いたりした。そうだ、ジョルジュ・ペレックの『眠る男』は愛読した。それからバタイユとセリーヌ--今振り返ってみると、読む順番も傾向もメチャクチャである。

 『二十世紀フランス小説』が有難いのは、そうした混乱をともかく整理してくれるからだ。十九世紀型のリアリズム小説から脱出して、自我や主体とは何かを問い直し、第二次大戦の混乱期を経由して、小説の書き方を根本的に問い直してゆく、と(ヌーヴォー・ロマンはこの最後の段階に対応する)。そして、「構造主義の退潮やマルクス主義の崩壊」のあと、「主体が表舞台に回帰してくる。七〇年代以降、伝記的なものが息を吹きかえし、作者がふたたび浮上してきている」。これは明解なルートの設定で、なかなか役に立つ。本書で言及される作品のかなり多くが翻訳されているので、このガイドを手にして、二〇世紀のフランス小説史を追体験することもできるだろう。

 弱点。あまりにもと言いたくなるほどのフランス中心主義でげんなりしてしまうこと。今日的な刺戟(しげき)力をもつという意味では、『ヨーロッパは書く』というエッセイ集の方が数段上というしかない。仏独伊露を初めとするヨーロッパ三十三ケ国の作家がドイツのハンブルクに集結して開いた会合の記録である。二〇〇三年初めのその会合には、フィンランド、ボスニア、トルコ、キプロス、セルヴィアなどの作家も参加している(イギリスからは、十三回におよぶ招待にもかかわらず、誰も参加しなかったとのこと)。

 その三十三人の作家の誰一人として、私は知らない。何人かは英語訳で読んでいるのかもしれないが、思い出せないのだ。勿論(もちろん)、日本語訳はないだろう。その彼らが、ヨーロッパを舞台とした文学について、その文化の多様性について語っている。きちんと紹介したいのだが、残念ながら、私にはその力がない。ポスト・コロニアル文学だけではなく、ここにも新しい重要な動きがあることは間違いないのだが--ともかく、読んでほしい。(『二十世紀フランス小説』は三ツ堀広一郎・訳/『ヨーロッパは書く』は新本史斉・他訳)

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