◇『二十世紀フランス小説』=ドミニク・ラバテ著
 (白水社・文庫クセジュ・1103円)
◇『ヨーロッパは書く』=ウルズラ・ケラー、イルマ・ラクーザ編
 (鳥影社・3045円)

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◇『ルイ十六世 上・下』
 (中央公論新社・各3990円)
 ◇知られざる「最も優れた敗者」の素顔
 三年前、パリ行きの飛行機で『パリ・マッチ』を開いたら、与党と野党の大物政治家がともに「ヴァカンス中に読んで面白かった本」の筆頭に本書を挙げていた。

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◇『フロイトのイタリア--旅・芸術・精神分析』
 (平凡社・3990円)
 ◇精神分析は「永遠の都」のせいで生れた
 フロイトはイタリアが大好きで、生涯に二十数回もこの国へ旅行した。彼の思想および精神分析理論の形成には、このイタリア好きが大きくかかわっている。一八九七年、旅に出る直前に友達に出した手紙にこうある。

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◇『ビューティー・サロンの社会学--ジェンダー・文化・快楽』
 (新曜社・2940円)
 ◇美容ビジネスの遺産が作家を支えた
 最初にことわっておくべきかもしれないが、エステとかビューティー・サロンなるものに対する関心は、私の場合、ゼロである。皆無、絶無、からっきし無い。「世間は、『ただ爪(つめ)にマニキュア塗ったり、マッサージしたり……ただそれだけの仕事』と見てるのよね。男性はちょっと風俗っぽいと思うようだし」というセラピストの声が本文中に引用されているが、私などは間違いなくそのような「世間」のひとりということになるのだろう。まあ、どうでもいいけれども。但(ただ)し、私の場合、そんな材料であっても、本になれば別。本になれば読むし、書評する。

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(ホーム社/集英社・2730円)
◇とどめおけないものを、とどめた小説
 
 厚ぼったい本である。やさしく繊細な小説であり、きわめて美しい小説でもある。完成されていると私は思う。美しく歪(ゆが)んだまま完成されている、と。『夜はやさし』というこの一冊の長編小説が、傑作である理由はたぶんそこにある。歪んだままというところ。なぜならそれは、人が、あるいは物語が持つ、天然の歪みだからだ。美しいに決まっている。本来、小説のなかには収まらないはずのものなのだ。
 F・S・フィッツジェラルドが、プルーストの『失われた時を求めて』を読み始めた妻のゼルダに、その本を読むなら一度に三頁(ページ)以上読んではいけない、と忠告したというのは有名な話だけれど、『夜はやさし』も、できればゆっくり読むほうがいい。この小説の主役の一つはまちがいなく時間だからで、やさしくもあり残酷でもあり、控え目でもあり強引でもある時間を、感じとるには時間がかかる。
 物語はこんなふうに始まる。「美しい海岸が続くフレンチ・リヴィエラの、マルセイユとイタリア国境のほぼ中間あたりに、堂々たる外観の大きなバラ色のホテルがある」。そのホテルで、ある母娘、ある夫妻を中心に、まず人々が出会う。観察やらかけひきやら、水遊びやらパーティやら、口論やら小旅行やら決闘やらがくりひろげられる。この第一部の多幸感(登場人物たちのではない。惜しげもなく読者に与えられる、多幸感)はすばらしい。文章によってのみ出現する日ざし、にぎやかさ、人々の魅力、そしてとどめおくことのできない一瞬一瞬。『夜はやさし』は、まさにその一瞬一瞬を--とどめおくことができないはずなのに--とどめ得てしまった小説なのだ。
 第二部は、冒頭で舞台がスイスに移り、時間も遡(さかのぼ)って第一部よりも過去のことが語られる。現在に戻り、リヴィエラのホテルや、再びスイスや、アメリカや、さまざまな場所で登場人物の一人一人がそれぞれの日々を前に進める。ディック・ダイヴァーと妻のニコルを中心とした、ある時代にある場所にいた人々だ。際立って個性的な、けれど人間がみなそうだという意味でささやかな、さらに人間がみなそうだという意味で未熟な人々--。ほんとうに、この小説には未熟の魅力が詰まっている。未熟故の輝き、未熟故のやさしさ、未熟故の成功、未熟故の美しさ。そして、未熟を扱う作家の手腕は熟達している。
 第三部に入ると、物語は加速度をつけてつき進む。こみいったまま、とどめおけないはずの一瞬一瞬を奇跡のように積み重ねながら、一つの時間の終りに向って--。
 一般的に、この小説は破滅もしくは崩壊の物語とされている。フィッツジェラルド自身の言葉、「言うまでもなく、人生とは崩壊の過程である」が帯に引かれてもいるとおり、そう読むことはもちろんできる。妻ともども人目を惹(ひ)くほど美しく、裕福で、周囲にその魅力をふりまかずにはいられなかったディック・ダイヴァーは、物語の終りではもうそのようではないのだから。けれどこれは時間の物語でもあるのだ。人は誰もひとところにとどまってはいられない。とどまっているふり(、、)はできるにしても、ふり(、、)をすれば失われてしまうものが確かにあって、それがあの輝やかしい一瞬一瞬だとすれば、そんなふり(、、)はとてもできない種類の人間だった登場人物たちに、私は拍手喝采(かっさい)する。物語の最後を、私なら破滅とも崩壊とも思わない。満ちたりた、やさしい結末だと思う。(森慎一郎・訳)

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(新潮選書・1155円)  ◇「心情による愛」の歓びと嫉妬のオペラ 十八世紀好きの一族がいる。たとえばイギリスのブリジッド・ブローフィ。彼女はリスボンを論じてこんなことを言う。「もしも地震がなければならないなら、一七五五年が絶好の年だ。再建するとき、花ざかりの十八世紀都市が手にはいる。それが起ったのがリスボン」。この作家は『劇作家モーツァルト』(一九六四)の書き出しでこう述べる。「わたしたちの世紀の誇りはモーツァルトを認めたことだけだ」 熱烈なそして才能の豊かなモーツァルティアン岡田暁生(あけお)が、十八世紀の子としてのモーツァルトに注目するのは当然のことだ。「一七五六年に生まれ、一七九一年に没した彼が生きたのは、カントやゲーテやシラーに象徴される新しい市民社会の夜明けが、ラクロやゴヤやサドといった旧体制(アンシャン・レジーム)末期の暗黒や官能とせめぎあっていた時代だった」という具合に。彼は十九世紀の作曲家のように世界の救済者を自負して形而上学を論じたりはしなかったけれど、彼の「軽やかさには、引き裂かれた時代の割れ目が刻印されていて、その幸福も、官能も、優美も、絶望も、すべてこの割れ目から鳴り響いてくる」と。そこで岡田は、エロティシズムという切り口からモーツァルトを、特に彼のオペラを考えてゆく。 モーツァルト以前のバロック・オペラは主流がオペラ・セリアで、(1)対立の不在(主役を歌うのはカストラートとソプラノで、声域の点で男と女の区別があまりない)、(2)出会いの不在(ほとんど一人で舞台に登場し、一人でアリアを歌い、一人で退場する。対話はレチタティーヴォすなわち歌うより語るほうに重きを置く唱法でかわされるだけ)、(3)感情の多義性の不在(喜怒哀楽は幾何学的なくらい記号化されている)を作劇術の基調とする。感情の表現は紋切り型で、起伏が乏しかった。十七世紀は幾何学的な堅い心性の時代であったが、それと呼応するように、十八世紀までのヨーロッパでは恋愛結婚は習俗として確立していなかった。 宮廷の遊戯愛でも、プラトニック・ラヴでもない、心情による愛を結婚の前提とする考え方は十八世紀初頭のイギリスで生れ、ドイツでは十八世紀半ばから勢いを得る。モーツァルトが心情による愛と結婚を求めたことは有名だが、彼はこの新しい恋愛観のもたらす歓(よろこ)びと嫉妬(しっと)の苦しみを題材にして、あの清新で豊かで多彩な四大オペラを作った。オペラの作曲家としての寡作も、台本を選び、積極的に口を出したのも、このせいだろう。そのへんの事情をリブレットと作曲の双方からこまやかに探ってゆく論じ方は読みごたえがある(たとえば『フィガロの結婚』第四幕の分析)。わたしは小林秀雄の『モオツァルト』(一九四七)が器楽中心でオペラを軽んじ、ただただロマンチックで十八世紀に対し無関心なのにあんなに耳目を聳動(しょうどう)したという文学史的事実を思い浮べ、ついにこの俊秀の論を得たことをわが音楽批評の成熟のしるしとして喜んだ。 しかし賞揚と讃嘆にもかかわらず、書き添えて置かなければならない不満もある。岡田暁生は、四大オペラのエンディングがいずれも曖昧(あいまい)な味わいである(たとえば『ドン・ジョヴァンニ』は凄(すさ)まじい地獄落ちのあとに味気ないハピー・エンディングが訪れるし、パートナー交換のドラマ『コシ・ファン・トゥッテ』の使嗾者(しそうしゃ)アルフォンソは二組のしあわせな男女の仲をずたずたにしたくせに平然としている)ことに注目して、こんなふうに何かすっきりと割り切れない感じで終るのは、むしろ長篇小説(それは十九世紀において劇に代る支配的ジャンルとなった)の方法だと言う。ドラマは本質的に、幕が降りたとき世界が完成し完結することを求めるが、しかし神や王を持ち出すことができなくなったとき、真の終止符は打てるのか。そこで十九世紀の長篇小説はエンディングを保留する。それゆえモーツァルトのオペラにおける「フィナーレの非フィナーレ化」は「オペラの小説化」と見立てることができるというのである。 卓抜な着想だと推奨してもよかろう。しかし典型的な十九世紀小説には果してフィナーレはないものかしら。わたしは岡田と違って「小説はいつまでもだらだらと書き続けることが出来る」とは思っていないし、それに何よりもディケンズやバルザックやトルストイの名作を思い浮べて小首をかしげてしまう。たぶん彼らは「神の死」を予感しながら、しかし小説的世界の始めと半ばと終り、起承転結の構造を信じていたのではないか。 などと疑問は呈するものの、モーツァルトのエンディングに共通する異様な性格についての指摘には同感し、よくぞ気がついたとその透視力に感服する。そこで思い出すのは、ジョイスの『ユリシーズ』を代表とする二十世紀小説のオープン・エンディング(読者に自由な解釈を許す終り方)だ。ひょっとするとモーツァルトのオペラは二十世紀小説の方法の予兆であったのかもしれない。毎日新聞 2008年6月1日 東京朝刊
https://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/06/20080601ddm015070024000c.html

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(岩波新書・777円)  ◇「欠如ゆえの過剰防衛」の秘密 以前、夏目漱石がフランス文学をどう評価しているか気になって調べたことがある。総じて点が辛い中、モーパッサンの『ピエールとジャン』だけは例外的に激賛されていた。『ピエールとジャン』とはこんな物語だ。母親の愛が弟のジャンに片寄っているため偏屈な性格になった兄のピエールは美しい未亡人に恋しているが、未亡人はジャンを愛しているので嫉妬(しっと)に苦しむ。あるときジャンに未知の男から莫大(ばくだい)な遺産がころがりこんだことから、ピエールは弟が母親の不義の子である事実をつきとめ、自分が愛されなかった理由を知る。母親への愛と憎しみ、弟への嫉妬、そして、それらを克服できない自分への嫌悪感。こうした感情に悩み抜いたピエールは太平洋航路の船医になって家庭を去っていく。 フランス文学畑の人間からみると『ピエールとジャン』は佳作だが、漱石の言うほどの大傑作ではない。ために、どうして漱石がそれほどこの作品にほれ込んだのかいまひとつ理由がわからなかったが、本書を一読して疑問は氷解した。ピエールとは漱石自身であり、「母に愛されなかった子」ピエールの懊悩(おうのう)は漱石の懊悩そのものだったのである。 著者によれば「母に愛されなかった子」漱石というテーゼを証明するには『坊っちゃん』一つで足りるという。げんに坊っちゃんは、おやじはちっともおれを可愛がってくれなかった、母は兄ばかりを贔屓(ひいき)にしていたと語る。坊っちゃんに仮託した漱石の母親への心の屈折が明らかになるのはその死に際してのエピソードである。母が病気で死ぬ二、三日前、坊っちゃんは台所で宙返りして肋骨(ろっこつ)を打ち、母から叱(しか)られ、おまえのようなものの顔は見たくないと言われる。母親の言葉は怒りの強さを示すレトリックなのだが、坊っちゃんはこれを字義どおりに受け取り、じゃあ、消えてやるよと、親戚(しんせき)の家に泊まりにいって親の死に目に会えずに終わる。 こうした、愛する相手がこちらの要求するレベルで愛に応えてくれないと、「なら、いい!」とふて腐れ、捨て鉢な態度に出て、それによって余計傷つき、人も傷つけるという愛情表現の空回りのドラマこそが漱石文学の根幹を成すと著者は考える。「母親に愛されていないのではないかと疑い、疑ったことを後ろめたく思い、その後ろめたさを打ち消すために、これだったら愛されないに違いないという証拠を自分から作っていく、そうして疑いを正当化する」。坊っちゃんの態度は漱石自身に巣くう愛情乞食(こじき)の投影なのだ。 こうした欠如ゆえの過剰防衛的性格は、母親が登場しない『草枕』や『虞美人草』、さらには『三四郎』『それから』『門』の前期三部作でも、また晩年の作品でも男女関係に転位され、大きなライトモチーフとなっている。このあたりの分析は見事というほかないが、ひとつだけ挙げるなら『それから』で三千代が代助に「なぜ捨ててしまったんです」と問い詰めるクライマックスの解釈だろう。「なぜ捨ててしまったのか、というのは、幼い漱石が、母に対して投げかけたかった問いにほかならなかった。投げかけたかったけれども、投げかけずに終わってしまった問い、そうして、捨てられるくらいなら、こっちから捨ててやるという論理にしがみつき、そういう煩悶(はんもん)から超然とすべく漢籍に走り、表現者への道を選んだ、そのきっかけになった問いにほかならなかった」 親と子の、そして男と女の永遠に終わらない愛の齟齬(そご)。漱石の現代性を改めて浮き彫りにした傑作評論である。毎日新聞 2008年6月8日 東京朝刊
https://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/06/20080608ddm015070036000c.html

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(NHK出版・2100円)  ◇出生の秘密めぐる2家族の明暗 子どもの出生にまつわる重大な秘密を鍵として、その秘密に翻弄(ほんろう)されながら、それぞれの運命を生きる一人一人のドラマが交錯する。各章を短篇小説のように濃(こま)やかに描きつつ、時間軸に沿った本流のストーリーを重層的に展開してゆく。これは『源氏物語』のスタイルと似ている。 罪、偽り、愛と孤独、悲しみといたわり、さらに自然と人生の季節。両者に共通するテーマは多くあるが、おそらく最大の共通テーマは、「時間」であろう。小説『メモリー・キーパーの娘』には、二十五年の歳月が流れている。各章のストーリーを「二十五年という長い年月に編みこんでいくことによって、大河のごとく大きくうねる骨太でダイナミックな物語を生みだした」と、訳者は記す。また、「“物語を味わうこと”は時間の流れを評価することにほかならないと感じた」とも。「時間」は何を持ち去り、そして何をもたらすのか。 一九六四年のある大雪の夜、医師デイヴィッドと妻ノラに男女の双子が誕生する。女の子はダウン症だった。妻を悲しませたくないため、彼はとっさに娘を施設に預けてほしいと看護師キャロラインに頼み、妻には死産だと告げた。しかしキャロラインは、その子フィービをみずから育てる決心をして、レキシントンからピッツバーグへ移る。 怖ろしい秘密を共有してしまうデイヴィッドとキャロラインの不思議な絆(きずな)は、実ははじめから用意されていた。 ある晩、彼はデスクでうたたねをしてしまった。子どものころに暮らした故郷のわが家の夢を見ていた。(中略)目が覚めてデスクから顔を上げたとき、瞳には涙があふれていた。そのとき、戸口に立った彼女がやさしげな表情を浮かべてこちらを見ていたのだ。(中略)心のどこか深い部分でたしかに彼女を理解したような、おたがいすべてわかりあえたような思いにとらわれた。 人と人とのひそかな心の交流が、しばしばこんな瞬間からはじまることを、わたしたちは確かに知っている。 デイヴィッドとノラと息子ポールの家族。キャロラインとフィービと二人を支えるアルの家族。二つの家族に二十五年の歳月が流れる。愛情から生まれたはずの秘密ゆえに壊れてゆく家族と、その秘密を引き受けたことによってかけがえのない愛情を育(はぐく)んでゆく家族。二家族六人の二十五年を見守りながら、愛と孤独について考え、人生と幸福について思う。 高く透きとおる彼女の声は木の葉の合間を縫い、陽射しをすりぬけて流れていく。砂利に、草叢(くさむら)に、ぶつかって弾ける。水に小石を落とすように宙で音符が弾むと、見えない水面に波紋が広がる。音の波、光の波。父はすべてを固定しようとしたが、世界はつねに流れ移ろい、留めることなどできない。(中略)やがてフィービがゆっくりと身をかがめ、スカートの皺(しわ)を伸ばした。そのごくありふれたしぐさで、世界がまた動きだす。

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 (岩波新書・735円) ◇「劇についての劇」の先駆者を発見 『ロミオとジュリエット』は有名な恋の悲話だが、冒頭にコーラスと呼ばれるおかしな人物が登場する。進行係、あるいは解説係とでもいうべき人物で、これが芝居の粗筋をあらかじめ観客に知らせてしまうのである。 おかげで観客は若い恋人の浮沈に同情するだけではなく、すでにわかっている宿命にもてあそばれる姿を、いわば高所から見下ろすことになる。運命に抗(あらが)う人間に痛切な共感を覚えながら、同時に距離を置いて、その無意味さを知的に眺めることを求められる。 そういえばシェイクスピアにはギリシャ悲劇のような、アリストテレスが『詩学』で定義したような古典的な悲劇は一本もない。どの場合も主人公は開幕冒頭に登場せず、脇役が先に現れて主人公の行く末をある程度まで予告する。いわば観客は作者と共謀の関係に立って、状況を知らない主人公の悪戦苦闘を半ば突き放して見ることになるのである。 誰もが知るハムレットも世評とは違って、叔父クローディアスの悪事を自力で暴き、確信をもって父の復讐(ふくしゅう)を遂げる聡明な人物ではない。悪事の真相はつねにハムレットのいない場面で洩(も)らされ、観客だけがそれを作者から直接に教えられる。当のハムレットは疑心暗鬼に苦しみながら、最後まで運命に振り回される姿を観客に見下ろされるのである。 シェイクスピアはその意味で近代写実劇とも異なり、観客に主人公の感情と一体化することを許さない。それは現代前衛演劇のブレヒトに似て、観客に人物を批判的に見させる「感情異化」の演劇を思わせる。だがより厳密にはそれはローマに発し、当時広く受容された「世界劇場」の思想を体現していた。 世界は劇場、人間はすべて登場人物だと見なし、そうすることで現実の苛酷(かこく)さを忍ぼうという思想だが、この標語はシェイクスピアの劇場「グローブ座」にも掲げられていた。だが世界が劇場なら、実際の劇場の芝居はその「劇中劇」ということになるはずで、シェイクスピアは事実、その自覚を抱いて芝居を書いた、というのが著者の主張である。 劇を劇中劇として書くとは、観客に劇場を意識させることであり、現実ではなく芝居を見ているのだという醒(さ)めた目を持たせることである。主人公は露骨に劇中人物として扱われ、作者と観客に操られて、自分では世界を支配できない地位に置かれることになる。 現に『お気に召すまま』のように、登場人物が直截(ちょくせつ)に「世界劇場」の思想を語り、自分でそれを意識している場合もある。だがじつはすべてのシェイクスピアの主人公は劇中劇の人物であり、その作品は劇についての劇なのだ、というのがこの本の含蓄だともいえる。

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(岩波書店・2730円)  ◇日常の物語に潜ませた技巧の数々 長篇小説『石蹴り遊び』で知られるフリオ・コルタサルは、長篇の他にも生涯に九冊の作品集、総計にして百を超える数の短篇を書き、独得の作風を持った幻想短篇作家としても定評がある。このたび邦訳された『愛しのグレンダ』は、一九八〇年に出たもので、八冊目の短篇集に当たり、収録されている十篇の短篇は、いずれもコルタサルの個性が存分に発揮された作品揃(ぞろ)いである。 コルタサルの作風を説明するには、同じラ・プラタ地域の幻想短篇作家としてしばしば並び称される、ホルヘ・ルイス・ボルヘスと比較してみるのがいいだろう。ボルヘスの短篇は、どれを読んでも淡々とした語りのトーンが一定していて、むしろ一本調子と言ってもいいくらいで、そこに技巧が凝らされることは少ない。ところが、それに対してコルタサルの短篇は、語りの技巧の博覧会とでも言えそうなほど、一作一作が凝りに凝っていて、同じ手は二度と使わないと決めていたのではないかと想像してみたくなる。その傾向はこの『愛しのグレンダ』にも顕著で、複数の視点の切り替えや、多声によるコンポジションといった、コルタサル得意の手法がうかがえる。たとえば、後者の見本としては、バッハの有名な『音楽のささげもの』をもとにして、八人の登場人物が八つの楽器を象徴し、物語の進行が楽章の展開をなぞるという構成を取った短篇「クローン」が挙げられるだろう。 もっとも、こう書くと、難しそうな実験小説かと受け取られるかもしれないが、実はそうではない。なるほどたしかに、コルタサルの短篇は、いささか粘着質で趣向に富んだ語り口のゆえに、読者にある程度の注意力を要求する。しかし、コルタサルの小説技巧は、彼自身の言葉を借りれば、あくまでも「深いところにはりめぐらした蜘蛛(くも)の巣」である。そして、彼がつねに描くのは、遊戯的な実験性とは縁遠いように見える、欲望、情熱、復讐(ふくしゅう)、暴力、殺人、姦通(かんつう)、背信、狂気といった、わたしたちになじみが深い卑俗で日常的な物語なのだ。おそらく、コルタサルとボルヘスの決定的な違いはそこにあるだろう。哲学的なエッセイかと見紛(みまが)うボルヘスの短篇には、ひんやりとした手ざわりがある。それに対して、コルタサルの短篇にはいわば赤々とした血が流れているのだ。 だから、コルタサルを読むことはいつでもショッキングである。とりわけ強烈なのは、短篇「ふたつの切り抜き」で、パリに住むアルゼンチン人の女性が、三年前にブエノスアイレスで現実に起こった国軍による残虐行為の記事を読んだところから物語は始まるが、彼女がある家庭内暴力事件を目撃して、そこに不思議なかたちで巻き込まれることによって、ブエノスアイレスとパリ、過去と現在という離れた時空の二点が橋渡しされ、そこに超現実としか呼べないものが出現する。わたしたち読者は、現実から不思議な世界へスリップしてまた現実へと、まるでメビウスの輪を一周してきたような感覚をショックとともに味わうのだ。 日本では、コルタサル最後の短篇集となった『海に投げこまれた瓶』がすでに一九九〇年に翻訳出版されている。その表題作は、実は『愛しのグレンダ』の表題作の後日談である。つまり、短篇「海に投げこまれた瓶」をもう読んでいる読者は、短篇「愛しのグレンダ」をまるで映画のフィルムを逆回しにしたように読むことになるわけで、これはいかにもコルタサル的な偶然ではないだろうか。(野谷文昭・訳)毎日新聞 2008年3月2日 東京朝刊
https://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/03/20080302ddm015070124000c.html

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(名古屋大学出版会・8400円)  ◇今に変わらぬ社会を映す傑作ドタバタ劇 来年はダーウィンの生誕二〇〇年になるので、世界の各地であれやこれやと賑(にぎ)やかなことになると思われる。それと直接の関係はないかもしれないが、昨年はゴルドーニの生誕三〇〇年にあたった。それに便乗するかたちで刊行されたのが、この『ゴルドーニ喜劇集』。彼の手になる喜劇九本の翻訳であるが、上下二段組で約六五〇頁(ページ)ある。これだけ部厚い本になると、私などわけもなく嬉(うれ)しくなってしまって、書評することにした。 しかし、それはそれとして、彼は何者なのだろうか。晩年は、ルイ一六世の妹のイタリア語の家庭教師としてヴェルサイユで暮らしていたものの、そこにフランス革命が勃発(ぼっぱつ)し、年金を打ち切られ、極貧のうちに世を去った。一七九三年一月六日のこと。若い頃(ころ)はヴェネチアで弁護士をつとめていたが、のちに座付きの劇作家に転向し、ときには一年に一六本も書いたりした。要するに、一八世紀の西欧文学を代表する喜劇作家ということである。 それにしてもあきれるのは、喜劇や悲劇、歴史劇やロマンス劇と、時期に応じて書き分けながらというのならともかく、これだけ一貫してコメディばかりを書きまくるとなると、それだけで感動してしまう。しかも、傑作だらけなのだ。 結論的にはそういうことで、あとは読者に任せればいいのかもしれないが、『骨董(こっとう)狂いの家庭、あるいは嫁と姑(しゅうとめ)』の中からほんの少しだけ引用してみよう。 アンセルモ もし別の……別の……掘り出し物があっターラ、持って来ターラ。 アレッキーノ はい、持って来ターラ、また戻リーラ、またパクリーラ。 アンセルモ 「パクリーラ」って、どんな意味かね? ブリゲッラ 旦那(だんな)さまだけ「特別扱いする」という意味で。

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(新潮社・1260円)  ◇現代的な文体で名作の感覚を一新 誰もが知っている『ティファニーで朝食を』の、村上春樹による新訳である。それだけでもわくわくする。そして、期待にたがわない見事なできばえだ。半世紀前にアメリカで出版された作品が、装いも新たによみがえった。従来の訳との味わいの違いは歴然としていて、着物を着ていた女性がドレスにお色直しして颯爽(さっそう)と登場したような感じさえ受ける。 村上春樹は小説家であるだけでなく、同時に翻訳家でもあり、仕事の時間のかなりの部分を翻訳に割いている。これは彼ほど有名な作家の場合、異例のことで、世界的にも類を見ない。たいていの作家はいったん地位を確立すると創作に専念し、翻訳などという「二次的」な仕事に携わるヒマはなくなるからだ。しかし、村上春樹の場合、翻訳は決して副業というようなものではない。 最近、サリンジャー、チャンドラーといった「現代の古典」の新訳に意欲を見せる村上春樹が今回、取り組んだのはカポーティの名作だ。オードリー・ヘップバーン主演の映画(原作とはかなり違う)のほうがよく知られているが、原作の翻訳も古くから存在し、多くの読者に読み継がれてきた。龍口(たつのくち)直太郎による訳が新潮社から最初に出たのは、原作の出版のわずか二年後、一九六〇年のことで、この龍口訳は新潮文庫で七四刷にまで達した。 では村上訳はどこが新しいのか。手っ取り早いところで、まず冒頭を比べてみよう。 龍口訳「私はいつでも自分の住んだことのある場所--つまり、そういう家とか、その家の近所とかに心ひかれるのである。たとえば、東七十丁目にある褐色(かっしょく)砂岩でつくった建物であるが、そこに私はこんどの戦争の初めの頃(ころ)、ニューヨークにおける最初の私の部屋を持った。」 村上訳「以前暮らしていた場所のことを、何かにつけふと思い出す。どんな家に住んでいたか、近辺にどんなものがあったか、そんなことを。たとえばニューヨークに出てきて最初に僕が住んだのは、イーストサイド七十二丁目あたりにあるおなじみのブラウンストーンの建物だった。」 語学的な問題は措(お)くとして、一読してすぐわかるのは、直訳的な龍口訳に対して、村上訳は「こなれている」だけでなく、カタカナをうまく使い、より現代的なスタイルになっていることだ(ただし、カタカナに頼るのは、私自身は必ずしもいいこととは思わない。本当は「ダーリン」をどう訳すかが、村上の天才の見せ所だと思うのだが)。 もう一つ、タイトルにつながる、ヒロインのセリフはどうだろうか。

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